太田述正コラム#2386(2008.2.25)
<ビザンツ帝国(その3)>(2008.9.11公開)

 ビザンツ帝国は東方世界に対する西側世界の防波堤となっただけではない。
 この帝国は、東方の文化を西側の文化を媒介する役割も果たした。
 帝国の正式の衣装や儀典は初期のペルシャの宮廷のスタイルを真似たものだし、ポロは中央アジアから拝借したものだ。男性の膝までの外着も東方の影響を受けているし、キリスト教徒たるアラブ人やユダヤ人、アルメニア人等の影響も受けている。
 逆にイスラム世界はビザンツ帝国から様々な考え方や習慣を吸収した。
 例えば、女性の顔を覆うベールはもともとはビザンツ帝国の中流階級のファッションだった。
 帝国は、その最後の世紀にイスラム・トルコとの間で軍事同盟を結んだり皇室間で婚姻関係を結んだりした。その結果、オスマントルコ帝国はビザンツ帝国的要素を多く取り入れることになった(注8)。

 (注8)例えば、オスマントルコ各地に建てられたモスクは聖ソフィア寺院そっくりだ(
http://www.bbc.co.uk/dna/h2g2/A455230
2月25日アクセス(以下同じ))。(太田)

3 終わりに代えて

 (1)序

 最後に、昨年アップロードされたばかりの英BBCのビザンツ帝国史から、補足的にいくつかの事柄を抜き出してご参考に供しておきます。

 (2)都をコンスタンティノープルに移した理由

 コンスタンティヌスがローマ帝国の首都をローマからコンスタンティノープルに移したのは、ボスポラス海峡を通って蛮族が黒海からローマ帝国東部の各地を海から攻略することを防止するとともに、ペルシャからの脅威に対処するためだ。
 また、東部はローマ帝国の最も豊かな地域だった。エジプトは帝国全体の穀倉だったし、ペルシャとの交易は絹や香料等の高価な商品をもたらした。
 こうしてコンスタンティヌスは、アテネ付近のメガラのギリシャ人が紀元前7世紀に建設したビザンティウム(Byzantium)に新都を建設することにしたのだ。後世、東ローマ帝国がビザンツ帝国と呼ばれるに至ったゆえんはここにある。
http://www.bbc.co.uk/dna/h2g2/A13970478

 (3)偶像破壊主義について

 旧約聖書には、神がモーゼに「天・地・水に住むものに似せて自分自身を偶像(idol)化してはならない」と命じたとある。
 これを受け、ユダヤ教では、神の肖像すらつくってはならないと受け止めたが、イスラム教ではこれを更に徹底し、あらゆる絵画を禁じ、その結果イスラム芸術は幾何学的な線描を旨とするようになった。
 他方、キリスト教では神やイエス・キリストの絵を描くこともこれらを崇拝することも許されるとした。キリスト教の聖人達の絵を描くことも許されるが崇拝することは禁じられた。しかし、聖人達が神に願い事をかなえてもらうように聖人達の絵に祈ることは許された。これらの絵はイコンと呼ばれた。
 ビザンツ帝国で偶像破壊主義が生まれたのは、イコンを否定するユダヤ人やイスラム教徒との接触が多かったからだ。
 皇帝で偶像破壊主義を実行したのがレオ3世(Leo3。治世:717〜741年)だ。
 彼は教会や修道院のイコンの破壊を命じた。法王がこれを批判したため、レオは法王を投獄しようとしたが、送った兵士達が海で遭難し、果たさなかった。
 レオの死後、後を襲った息子のコンスタンティヌス5世(治世:741〜775年)も偶像破壊主義を継続した。
 その子のレオ4世(治世:775〜780年)は、偶像破壊主義を継続しつつもイコン好きのイレーネ(前出)を皇后としていたところ、レオ死後イレーネは全キリスト教世界の聖職者達を集め、偶像破壊主義は異端であると宣言させた。
 ただし、爾後イコンを崇拝(worship)してはならず、崇敬(venerate)すべきものとされた。
http://www.bbc.co.uk/dna/h2g2/A10477550

 (4)ロシア(キエフ公国)との関係

 ビザンツ帝国皇帝バジル2世(Basil 2 the Bulgar-Slayer。958〜1025年)は、ビザンツ帝国中興の主だが、皇位を簒奪しようとした者との内戦が起こった時、キエフ大公ウラディミール(Vladimir Svyatoslavich the Great。958?〜1015年)に妹との婚儀を持ちかけ、その代わり援軍(6000人の傭兵)を送ってくれること、大公自身がキリスト教に改宗し配下のロシア人(Rus)全員をキリスト教に改宗させることを約束させた。
 双方ともこの約束を守り、ウラディミールはロシア正教会の祖として正教の聖人に列せられることになる。
http://www.bbc.co.uk/dna/h2g2/A13970603

 (5)幻と消えた新ローマ帝国の成立

 シャルルマーニュはイレーネ(前出)と結婚すれば神聖ローマ帝国とビザンツ帝国との統合ができると考え、イレーネに求婚した。イレーネもその気になったが、ビザンツ帝国の官僚達は合議の上、802年に女帝イレーネを退位させてしまう。彼女はレスボス島に亡命させられ、一年後に死亡する。
http://www.bbc.co.uk/dna/h2g2/A10477550
 ゾエ(Zoe。978年〜)はバジル2世の姪にして生涯独身を通し子供がいなかったバジルの後を襲ったコンスタンティヌス8世の娘だったが、バジル治世下の1001年に彼女が23歳の時に、神聖ローマ帝国皇帝オットー3世との婚約が成立した。もし二人の間に男子が産まれれば、その男子が統一ローマ皇帝になる含みだった。
 ところが、ゾエが婚礼のためにオットーのもとに赴く途中、イタリア半島のバリ(Bari)に到着した時にオットーが急死したとの連絡が届き、この話は無に帰してしまう。
http://www.bbc.co.uk/dna/h2g2/A507836

(完)