太田述正コラム#2384(2008.2.24)
<ビザンツ帝国(その2)>(2008.9.10公開))

 それだけではない。
 ビザンツ帝国は、正教キリスト教、ローマ帝国主義、及びギリシャ的伝統間の本来的、創造的緊張関係の下で、「自らを情熱的に信じているところの活発で進取の気性に富んだ社会」として生存し続けた。
 このビザンツ帝国が生み出した世界主義的、芸術的、知的文化は、イタリアのルネッサンスに深甚なる影響を与え、異邦人達をもてなし移住せしめ、中世の地中海経済を一体化させたところの安定した通貨価値を維持せしめ(注2)、イコン(Religious Icons)尊崇という永続的慣行を含むところの正教の豊饒な儀典と深い精神性を確立せしめた(注3)。

 (注2)コンスタンティヌスは、309年にコンスタンティノープルで24カラット金貨を鋳造し、普及せしめたが、この仕様の金貨は古典後期及びビザンチンの世界で用いられ続けた。11世紀初頭まですべての皇帝達は同じ仕様の金貨(bezant)の鋳造を行った結果、この700年間を含め900年近くにわたって貨幣価値が維持された。
 (注3)前出の書評子は、ビザンツ帝国と西側世界を画然と区別しようとするのは間違っており、少なくとも1204年までは両者は全く同じ文明に属しており、このことが現在に至るまでの欧州の一体感のもとになっていると主張している。

 キリル(Cyrillic)文字は、9世紀に御しにくく治めるのが容易でないスラブ族との意思疎通を図るためにビザンツ帝国の後押しで生まれたものであり、ビザンツ帝国歴代皇帝は聖書のキリル語への翻訳を支援することでスラブ族が聖書を読めるようにしてキリスト教の布教を推進した。これに対し、西側世界では、15世紀過ぎまで聖書の西欧各言語への翻訳は禁じられ続けた。

 ビザンツ帝国は専門官僚制による政治、ユスティニアヌス(Justinian 1。482か483〜565年)によるローマ法の改訂集成を嚆矢とする精緻な制定法体系、明朗な税制を持っていた。また、イスラム教の影響を受け、同教への対応として8世紀に偶像破壊主義を生み出した。
 このほかにもビザンツ帝国の遺産は数多い。
 フォーク(注4)、百科事典、そして水力オルガンはビザンツ帝国が生み出したものだし、イタリア半島でベニスやラベンナという植民市を建設したのもビザンツ帝国だ。

 (注4)1004年か1005年にビザンツ貴族のアルグリオプーァニア(Maria Argryopoulania)が初めて二本歯の優雅な金製のフォークをベニスで用いたことで、西側世界の食事の習慣は大きく変わることになる。

 また、ビザンツ帝国は、ギリシャの火(Greek fire)と呼ばれた爆発的燃焼物を陸上と海上で武器として用い、これで木製の船や攻城櫓を焼尽させた。後にベニスが毛皮に耐火剤を塗布してこのギリシャの火に対抗するすべを考案するまで、この武器は無敵だった。
 ビザンツ帝国は女性が活躍したことでも知られている。
 皇后のテオドラ(Theodora。500?〜548年。ユスティニアヌスの皇后だが夫によって共同統治者とされた。正教の聖人に列せられる)や女帝イレーネ(Irene。752?〜803年。正教の聖人に列せられる)(注5)、年代記作者のアンナ・コムネナ(Anna Komnena。1083〜1148?年)姫(注6)等々。中世の西側世界ではアキテーヌのエレアノア(Eleanor of Aquitaine。1122〜1204年)(注7)くらいしか活躍していない。

 (注5)レオ4世の皇后だったが夫の死後息子を皇帝(コンスタンティヌス6世)にするも後にこの息子を殺害し、797年に女帝となる。ローマ法王レオ3世は、これにより、キリスト教世界に皇帝がいなくなったとみなし、800年にシャルルマーニュにローマ皇帝位を授けた(
http://en.wikipedia.org/wiki/Irene_(empress)
。2月24日アクセス(以下同じ))。(太田)
 (注6)皇帝アレクシウス・コムネヌス(Alexius Comnenus)の娘。父親の年代記を執筆し、ビザンツ帝国や第一次十字軍について記した。世界最初の女性歴史家とされている。(
http://historymedren.about.com/od/awho/p/who_annacomnena.htm
)。 (太田)
 (注7)フランスのルイ7世の王妃、後にイギリスのヘンリー2世の王妃となる。リチャード1世とジョンという二人のイギリス王の母。ルイ7世の王妃の時代にルイとともに第二次十字軍(1145〜1149年)に参加。(
http://en.wikipedia.org/wiki/Eleanor_of_Aquitaine
)(太田)

(続く)