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太田述正コラム#2750(2008.8.25)
<グルジア「戦争」と歴史の逆襲>

1 始めに

 今次グルジア「戦争」の背景について、歴史的に掘り下げた記事がニューヨークタイムスに連続して出たので、ご紹介しておきましょう。

2 グルジアとオセチアの民族的対立の背景

 「オセチア人は<イランの言語である>ファルシ(Farsi)の系列の言語をしゃべる。他方グルジア人は、言語学者の中には一番近いのがバスク語だと指摘する者もいるところの言語をしゃべる。・・・
 この<コーカサス>地域では、ジャングルの密度が高く小さい種族がほとんど互いに出会うことのないところのパプアニューギニアとアマゾンの一部は別にして、世界のいかなる場所よりも多い、40もの自生的言語が用いられている。コーカサスでは山々が同じ効果を生み出したのだ。・・・コーカサスの諸言語は三つの主要グループに分けられるが、どのグループも、これまでのところ、地球上の他のいかなる言語にも関連づけられていない。・・・
 グルジア人とオセチア人は、どちらも先に南オセチアにやってきたのは自分達だと主張している。・・・オセチア人はティンヴァリ周辺の渓谷を自分達の故郷とみなしている。これに対し、グルジア人は彼らを「客人」であると反論する。
 この二つのグループの間で起こった1990年代初期の戦争は、彼らを殆ど外科的に分断してしまった。グルジア人の若者達は、ソ連時代にこの地域全体の共通語であったロシア語を学ぶのを止め、オセチア人の若者達はグルジア語を学ばなかった。どちらもしゃべれた年配の人々は、しゃべれないように装った。・・・」(
http://www.nytimes.com/2008/08/24/weekinreview/24barry.html?pagewanted=print  。8月24日アクセス)

3 ロシアとグルジア共通の「英雄」スターリン

 「今日では、モスクワに関する限り、グルジア職人の息子で狂信的マルクス主義者はそのグルジアとマルクスのすべての痕跡が拭い去られ、ロシアの皇帝(czar)として、今日の資本主義的、プラグマティックにして威張り散らしたロシアの権威主義的かつナショナリスティック、更には帝国的傾向の発想の源泉となっている。
 今次<グルジアでの>危機や、今後生起するであろう将来の危機においても恐らく、スターリンは帝国、威信、勝利を代表する存在なのだ。
 ウラディミール・プーチンが昨年ロシアの教師達に贈った新しい教科書では、スターリンは「20世紀のロシアの為政者の中で最も成功を収めた」存在として登場する。・・・<すなわち、>ロマノフ王朝のどの皇帝よりも一層帝国の版図を拡大しロシアを核超大国に仕立て上げたというのだ。彼による殺戮は必要に迫られたからだとし、やり過ぎではあったが、整斉と行われたと。・・・
 プーチンは、・・・ミハイル・サカシヴィリ大統領との初期の口論の際に、「われわれにスターリンを与えてくれてありがとう」と述べた。換言すれば、今日におけるスターリンの奇妙な再評価においては、スターリンの帝国的、勝利者的部分はロシアに帰せられ、よろしくない部分はグルジアに帰せられているのだ。・・・面白いことに、・・・プーチンの祖父はスターリンのコックだったのに対し、サカシヴィリの貴族的な祖父母はロシア皇帝の秘密警察の手から若きスターリンを匿ってやっている。・・・
 歴史は完全に繰り返すことはないが、ロシアの<今回の>コーカサスにおける力の行使、かつポスト1991年期の秩序に対する挑戦は、スターリンにとってはお馴染みことだ。第二次世界大戦の後、スターリンは、今日プーチンのロシアが1990年代の屈辱の後たくましく再起したように見えるのと同じく、長年の革命、テロ、戦争の後彼の権威の頂点に立っていたかに見えたものだ。スターリンは東欧を獲得した。一方プーチンは石油と天然ガスの帝国を得た。そしてこの二人はは、欧米の偽善的な物の考え方(sanctimony)に対する煮えたぎるような怒りの感情と結びついたところの自信たっぷりの威張りくさった態度を共有している。
 単に勢力圏というより、支配(domination)しているかどうかが問題なのだ。スターリンは彼の軍が東欧に彼の政治体制を押しつけることになると言明した。同様、モスクワによるグルジア侵略のねらいは米国流の民主主義の排除であり、それをロシアの管理された権威主義的政治の諸性向によって置換することなのだ。クレムリンはあの時も今も、われわれ<欧米>が追求する事柄に基本的に反対なのだ。
 冷戦時代を振り返ってみれば、ベルリン危機が最も参考になる先例だ。スターリンは1948年に欧米を試した。同じことをプーチンは現在グルジアでやっているのだ。<ベルリンに引き続き、>今度はグルジアにおいて、米国は脆弱な存在を、戦争に訴えることなく一定の線を守る形で維持し回復するという身のすくむような営みを行わざるをえなくなった。・・・
 「親父はかつてグルジア人だった」とスターリンの息子のヴァシーリー(Vasily)が言ったことがある。実際、この独裁者は本当にロシア人になったわけではなかった。彼は文化的にはグルジア人であり続けたのだ。しかし彼は、ロシアの人々の帝国的使命感を自分のものとした。彼は、自分のコーカサスの民族的争闘についての知識を活用して、ロシアのトロイの木馬として、オセチアとアブハジアを含むところの、共和国群を共和国群の中につくるというやり方でソ連の設計図を描いた。このスターリンが実施した大プロジェクトは彼亡き今も今なお続けられている。・・・
 スターリンは、ロシア民族を守るためという名目で領土を併合する専門家でもあった。1939年のポーランド東部、ベッサラビア、そしてバルト諸国を思え。・・・
 スターリンの父親はオセチア人の子孫だったが、一家は長きにわたってグルジア化していた。・・・1904年にはスターリンはボルシェビキの上層部から異端と非難され、グルジア・ナショナリズムを屈辱的に放棄させられた。血腥い銀行強盗(複数)の首謀者としてグルジアから追放された時、彼はグルジアを「片田舎の沼沢地」と形容した。1921年には彼は新しく独立したグルジアに対する赤軍による侵略と併合をやってのけた。彼のグルジアに対する復讐は今なお続いている。グルジア人達はスターリンが亡くなった時にその死を悼んだ。ニキータ・フルシチェフがスターリンを1956年に批判した時、グルジア人は叛乱を起こした。しかし現在ではグルジア人達は親欧米的民主主義を自分のものとしているのに対し、ロシア人達の間ではスターリンが復権した。その復権の程度は、ヨシフ・ジュガシヴィリ(Iosif Dzhugashvili・・スターリンの本名(太田))の<ゴリにおける>ささやかな生誕地周辺の白い大理石でできた社を守るかのように<ロシアの>戦車群が停まっていたことに最も良く示されている。これぞまさしく、2005年にウラディミール・プーチンがソ連の崩壊は20世紀における「最大の地政学的大災害」であると語ったことの真意なのだ。(
http://www.nytimes.com/2008/08/24/opinion/24sebag.html?ref=opinion&pagewanted=print。8月25日アクセス)

3 終わりに

 前の方の記事は、コラム2743(未公開)の補足になっています。
 また、後の方の記事は、お馴染みのモンテフィオール(Simon Sebag Montefiore。コラム#1775、1777、1779、1850、1866)によるものです。
 歴史って本当に面白いですね。
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太田述正コラム#2751(2008.8.25)
<グルジアで戦争勃発(その10)>

→非公開

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