太田述正コラム#2718(2008.8.9)
<皆さんとディスカッション(続x216)>

<ワイズ・クラフト>

 コラム#2607「ネオ儒教論の展開(その2)」を読みました。

>そして彼は、〜3院制の議会を提唱している。一つ目は民衆から選挙によって選ばれる議員、二つ目は儒教等が科される科挙に合格した者たる議員、三つ目は孔子の子孫達から任命される議員、によってそれぞれ構成される。

→三つ目は孔子の子孫達を日本の皇室のような存在にしたいという考えもあるのでしょうか?

 その後、オリンピックの開会式を見て驚きました。セレモニーでの始まりが、「朋あり、遠方より来たれり。うれしからずや」。
 見事に孔子のお言葉。
 中国は共産主義の皮をはがして、これからネオ儒教で行きますという宣言ですね。

<太田>

 孔子の子孫達は、清の時代まで、そして現在では台湾において、日本の皇室とまではいかなくても、それに準ずるほどの処遇を受けてきました。

 「孔子の子孫と称する者は数多く、直系・・・200万人・・・でなければ現在400万人を超すという。
 孔子に敬意を表するため、孔子その人に様々な封号が贈られたのは前述の通りであるが、その子孫にも厚い待遇が為された。まず前漢の皇帝の中でも特に儒教に傾倒した元帝が、子孫に当たる孔覇に「褒成君」という称号を与えた。また、次の成帝の時、匡衡と梅福の建言により、宋の君主の末裔を押しのけ、孔子の子孫である孔何斉が殷王の末裔を礼遇する地位である「殷紹嘉侯」に封じられた。続いて平帝も孔均を「褒成侯」として厚遇した。さらに時代を下って宋の皇帝仁宗は1055年、第46代孔宗願に「衍聖公」という称号を授与した。以後「衍聖公」の名は清朝まで(中華民国初期まで(太田))変わることなく受け継がれた。しかも「衍聖公(Duke Yansheng)」 の待遇は次第に良くなり、それまで三品官であったのを明代には一品官に格上げされた。これは名目的とはいえ、官僚機構の首位となったことを意味する。
 孔子後裔に対する厚遇とは、単に称号にとどまるものではない。たとえば「褒成君」孔覇は食邑800戸を与えられ、「褒成侯」孔均も2000戸を下賜されている。食邑とは、簡単に言えば知行所にあたり、この財政基盤によって孔子の祭祀を絶やすことなく子孫が行うことができるようにするために与えられたのである。儒教の国教化はこのように孔子の子孫に手厚い保護を与え、繁栄を約束したといえよう。」(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%94%E5%AD%90
。8月9日アクセス)

 翻訳の労を省くために日本語ウィキペディアに拠りましたが、例によって英語ウィキペディア(
http://en.wikipedia.org/wiki/Confucius
。8月9日アクセス)の方が、(現在の中共における新儒教への言及があるほか、)清の乾隆(Qianlong)帝が孔子の72代目の当主である孔Xianpei(Kong Xianpei。1755〜93年)の娘を皇后にし、爾後、清の皇帝の家は愛新覚羅・孔家、と言うべきものとなったことや、孔家の本家は、国共内戦時に山東省の曲阜(Qufu)から台湾に移り、現在の77代目の当主、台湾(中華民国)の5権の一つである考試院(Examination Yuan)の院長を勤めたことがある、孔成(Kung Te-cheng。1920年〜)(中華民国大総統の徐世昌(Xu Shichang)によって、生後すぐに衍聖公に任命された。最後の衍聖公)にも触れており、比較にならないくらい充実しています。

 いずれにせよ、中共が孔家の当主をかつての衍聖公並に処遇するようになる可能性は大いにあるものの、それにはまずもって、当主の直系男子子孫の「奪還」ないし、台湾併合が必要であると考えられ、容易には実現しそうにもありませんね。

<衆愚>

 コラム#2716を読みました。
 神永正博の「学力低下は錯覚である」によれば、大学生の学力は年々下がっているにもかかわらず、高校卒業生の学力は下がっていません。
 大学生の学力低下は少子化の影響のようですね。
 日本人の学力低下を嘆くのなら二人以上子供作ってから言えよと思いますけどねぇ・・。

<太田>

 私が孫引きした陰山英男氏の指摘(コラム#2313)は誤りだとおっしゃっているわけですね。
 ここは一つ、教育界におられる読者の方にぜひ陰山説と神永説それぞれの評価をお願いしたいところです。

<雅>

 MSさんへ。
 太田述正コラム#2704のご返答、すいません、私事で色々悩んでいてご返答が遅くなりました。
 さて、現在の韓国の政治体制ですが、ご存じの通り上にトンデモない国がいるので準臨戦態勢なのでしょうね。
 なので、報道・教育にはいくらからのベクトルは掛かっていると思います。言論出版の自由なども民族主義的な雰囲気から一部は自動的に嫌煙されています。
 いい例がこちら → 趙英男
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99%E8%8B%B1%E7%94%B7

 そういう政治体制であるということを鑑みるとやはり親日派国家なのでしょうね。
 そのほかの重要性はまあ、一応一目瞭然かと思うので。
 丙寅洋擾(1866)と辛未洋擾(1871)ですが、これは、朝鮮版の「ペリー来航」ではないかと思い、当時のこの両事件の朝鮮の政治的判断次第で国運が別れたのではないかと思いました。
 歴史にIFはタブーですけどね。

 これは個人的な話ですが、数年前韓国の学生と友達になったことがありまして、日本人になるまでこういっていました「日本人と会って知り合うまでは鬼かと思っていた、知り合ったらいい人ばかりじゃないか」とやはり人が交流すると日韓のわだかまりは消えていくのかな?っと思ってます。

<MS>

 雅様、ご返答ありがとうございます。
 趙英男<の>ご紹介ありがとうございます。

>そういう政治体制であるということを鑑みるとやはり親日派国家なのでしょうね。

 少なくとも今までの掲示板の議論などをふまえて、
1. 日本は韓国にとって(良否は別として)安全保障上重要な位置を占める国だという認識を韓国人の大多数がもっている。
2. 理性的に日本を分析している韓国人が少なからずいる。
ということはいえるのではないかと思います。

>そのほかの重要性はまあ、一応一目瞭然かと思うので

 まったく一目瞭然ではないのですが。。。

≫日本の植民地統治時代の評価を物語る上で重要かと思われる前後の出来事≪
(コラム#2698。雅)

>丙寅洋擾(1866)と辛未洋擾(1871)ですが、これは、朝鮮版の「ペリー来航」ではないかと思い、当時のこの両事件の朝鮮の政治的判断次第で国運が別れたのではないかと思いました。歴史にIFはタブーですけどね。

 丙寅洋擾、辛未洋擾も含めた朝鮮が開国する過程については、コラム#2690でご紹介いたしました書籍『韓国をめぐる列強の角遂 副題:19世紀末の国際関係』(崔文衡著、齋藤勇夫訳、彩流社、2008)で、以下のように述べられています。

『3 英露の衝突自制と江華島修好条約

英露がともに相手を意識して自制方針を固めると、この両大国を自国の韓半島進出の 最大の制約要因と認識していた日本は絶好の機会を迎えることになった。そして、フラ ンス、米国、ドイツなども直ぐにこの機会を利用して各々が韓国浸透を図ってきた。リ デル神父ら天主教徒迫害を口実にした丙寅洋擾(一八六六)、ゼネラルシャーマン号事 件(一八六六)による辛未洋擾(一八七一)、そしてドイツ商人オペルトの通商要求失敗 による南延君(大院君父親)墓盗掘事件 (一八六六)などがそれである。すなわち、 英露両国の対決自制による相互牽制作用から派生した力の空白が日本を始め多くの国を して韓半島浸透の試みを可能にしたのである。・・・
 他方、ロシアは一八七一年進出方向を突然西方に向け、清国領トルキスタン(新疆省 )を占領、いわゆる伊犁紛争を挑発した。... 事態は英露対決ではなく露清間の紛争に 切り替わった。
  しかし、伊犁紛争は、清国に及んだ衝撃とともにもう一歩踏み出して東アジア情勢を 再びを大きく替えることになった。すなわち、清国がロシアとの紛争に巻き込まれ、日 本の韓国侵略を遮る余力がなくなったのである。日本はこの機会をいち早く捉え、まず 台湾遠征を断行した(一八七四)。そして翌年には雲揚号事件を挑発し(一八七五・九 ・二〇)、その翌年には遂に江華島条約を締結、韓国を開国させるに到った(一八七六 ・二・二六)。そして、それだけでなく琉球も併合、その名を沖縄と改称した(一八七 九)。日本は韓半島への進出を邪魔する第二の制約要因だった清国を伊犁紛争の隙に乗 じ、別段の苦労もなく簡単に克服した。・・・
  江華島修交条約は当時アジアをめぐり展開された英露対決という国際情勢を日本が巧 妙に利用した結果とも言われるが、ロシアの韓半島併合を阻止するための英国の陰謀が 作用した結果とも言われた。・・・ 一八七四年台湾遠征の事後処理のため北京を訪問 した大久保利通に、「日本が台湾の変わりに韓国に進出すれば列強の支援を得るだろう 」と言った駐清英国公使ウエイドの言及を見ても明白なことだ。・・・
  日本はこのように英露の対立を逆に利用して、両国の干渉という日本の韓半島進出の 第一制約要因を軽く取り除き、続く清国の干渉と言う第二制約要因も順に除去すること に成功した。一八五四年に英露の修交提案を二国が交戦中との理由で拒絶したことのあ る日本としては、明治維新を経て二〇余年の歳月を重ねた一八七六年ごろには国際情勢 を適切に活用できないわけはなかっただろう。すなわち、侵略の機会を捉えるには英露 を手本とし、相対国清国の苦境を好機として利用し、侵略方法には米国のペリー提督を 真似て、いわゆる砲艦外交を駆使したのである。
  この結果、日本はまず江華島修好条約第一条に、韓国が自主之邦であると主張し、韓 国に対する清国の宗主権を否定して、従来の日本と韓国との隣国交流の関係を近代的不 平等関係に切り替えた。これは清の干渉を排除するための布石だった。・・・
 しかしどうあれ、日本の強圧に屈服して結んだ江華島条約は、以後韓半島が列強の争 奪の対象に追われる最初の段階になったのは事実である。』(p31-35)


>これは個人的な話ですが、数年前韓国の学生と友達になったことがありまして、日本人になるまでこういっていました「日本人と会って知り合うまでは鬼かと思っていた、知り合ったらいい人ばかりじゃないか」とやはり人が交流すると日韓のわだかまりは消えていくのかな?っと思ってます。

 一般論としてはその通りだと思いますが、現日本は米国の保護下という異常な状態であり、かつ、対する韓国が依然『史観戦争中』である(朝鮮日報、"【コラム】韓国社会は今、「史観戦争中」(
http://www.chosunonline.com/article/20061203000014
 08/08/09アクセス)であることが悪影響を与えているのでしょう。
 日本がまともな独立国になって東アジアの安全保障に主体的に関与するようになれば、安全保障上、韓国と日本は利害が共通することが多いため、韓国の反日感情が雲散霧消し、かつ、韓国内の対立の力関係が変化して「史観戦争」も終結するのではないでしょうか?
 したがって、問題は韓国ではなく基本的には日本にあると思います。
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太田述正コラム#2718(2008.8.9)
<グルジアで戦争勃発(その1)>

→非公開