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太田述正コラム#2607(2008.6.13)
<ネオ儒教論の展開(その2)>(2008.8.8公開)

 Jiangは、儒教を英国の国教会やスエーデンの福音ルーテル派のような中共の国家宗教としつつ、英国やスエーデン同様、中共も宗教の自由を認めるべきだとする。
 そして彼は、台湾で出版された著書の中で、3院制の議会を提唱している。
 一つ目は民衆から選挙によって選ばれる議員、二つ目は儒教等が科される科挙に合格した者たる議員、三つ目は孔子の子孫達から任命される議員、によってそれぞれ構成される。
 一つ目の議院は英国の下院に相当し、三つ目の議院は英国の上院に相当すると考えれば、Jiangの主張の独自性は二つめの議院の導入にあると言えるかもしれない(注4)。

 (注4)公務員試験を優等で通った者は議員になれる、ということだと考えれば、これは意外に普遍性のある政治制度だと言えるかもしれない。ただし、試験に儒教が科される点については普遍性はない。(太田)

 (3)新儒教主義採用の論理的帰結

 本当に中共が新儒教主義を採用するとなれば、中国共産党はまずもって中国儒教党へと名前を変更しなければなるまい。
 そして、その論理的帰結は次のようなものになる。
 孔子は為政者は力によってではなく、徳を自ら実践することによって治めよと説いた。
 ただし孟子は、軍事力を懲罰的戦役のために用いることは許されるとした。
 懲罰的戦役とは要するに今で言う人道的介入のことであって、人々を甚だしい窮乏から救うための軍事力の行使を指す。
 そうだとすると、天安門事件の時のような軍事力の行使はもとより、台湾に軍事侵攻し流血の惨事を引き起こして併合したり、そういうことをすると台湾を脅して併合したりするのも許されないことになる。
 また、儒教においては、為政者は科挙の成績のみによって選抜されるべきだとされている。
 一方、現在の中共では官僚は基本的に試験の成績によって選抜されるが、その試験科目の中には「共産主義」政治哲学も含まれており、これは同調性(conformity)のテストであって政治的能力のテストとは言い難い。
 それもそのはずであって、現在の中共では官僚は政策の執行者に過ぎず、過去において科挙に通った人々のように政策立案者たることまでは期待されていないのだ。現在政策立案を行っているのは中国共産党であり、中国共産党の党員になるのも幹部になるのも、試験によるものではない。
 その中国共産党の胡錦涛以下の現在の最高幹部のほとんど全員が理学や工学の教育しか受けていない(コラム#2579)ことも、人文教育を重視する儒教に照らせば問題だろう(注5)。

 (注5)6月10日、中国共産主義青年団(共青団)の最高ポストの第1書記に陸昊氏(41)が選出(任期5年)された。胡錦濤国家主席や胡耀邦元総書記も共青団第1書記を歴任した。2013年に首相に就任するとみられる李克強副首相(53。北京大経済学博士)、40代の周強・湖南省長(48。西南政法大法学修士)、胡春華・ 河北省長(45。北京大中国文学士)も共青団第1書記出身だ。こういう中、更に北京大経済学部修士課程出身の陸氏が第1書記に選出された(
http://www.chosunonline.com/article/20080611000016
(6月10日アクセス)
http://j.people.com.cn/2007/10/23/jp20071023_78530.html
http://shinoper.iza.ne.jp/blog/entry/533749/
http://www.pref.shiga.jp/b/kokusai/keizai/chuzaiin/konan/files/tayorik061016.pdf(いずれも6月13日アクセス))ところを見ると、中国共産党は、最高幹部の構成を文系優位に切り替えつつあることが分かる。これも胡錦涛のネオ儒教的布石と受け止めるべきかもしれない(太田)。
 
 もちろん、中共は現在の人的・思想的鎖国状況も打破しなければならない。
 孔子は、「朋あり、遠方より来たれり。うれしからずや」と述べているではないか。
 昔の支那には、外の世界に対して開かれていた時代が何度もあった。
 五輪開催を契機に、中共は儒教的精神に則り、開国へと明確に舵を切るべきだろう。
 幸い、中共には既にシンガポールなどよりはるかに大学における学問の自由が存在する。
 私は、北京大学と並ぶ中共の最高学府である清華大学の人文社会系の初めての外国人教師(政治学)となった人間だが、同大学の学生達は保守的で排外主義的なナショナリスト達であるどころか、彼らに議論をさせると政府批判一色になってしまって、たびたび私自身が政府の肩を持つ形で議論に介入せざるをえなくなるくらいだ。
 また中共の学生達が、カネの亡者で利己的な者ばかりだという神話も、今度の四川省大震災の時の彼らの言動によって雲散霧消したのではないか。
 中共は新儒教主義を採用した言ってもよいが、だからといって、新儒教主義、というか儒教が自由民主主義と相容れないとは言い切れない。
 すなわち、新儒教主義を掲げつつ、中共が実質的に自由民主主義定着への道を歩んでいく可能性もないとは言い切れない。

3 感想

 私はカネに関してのみ開国をして、ひたすら高度経済成長路線をつっぱしっている中共というファシスト国家の今後について、ダニエル・ベルほど楽観的にはなれません。
 自由民主主義こそ人類にとって究極かつ最善の選択であると固く信じている点でも私はベルとはちょっと違うようです。
 いずれにせよ、私はベルほどではありませんが、新儒教主義を掲げるという中共の壮大な実験は、大躍進とか文化大革命といった中共の過去の不毛な壮大な実験とは違って、それなりの意義は認めています。
 ベルとは違って、私は新儒教主義は中共の自由民主主義化の障害となると考えますが、新儒教主義を掲げることによって、中共というファシスト国家が、対外侵略に乗り出さず、混沌化や内戦化をも免れる可能性が増し、中共の人々が長期的な安定と経済的繁栄を享受し、その結果として、意図しない形で中共の自由民主主義化が実現することだってありうると私は考えるからです。
 本当は、中共が北部と南部とチベット地区という3つの地区に分かれ、北部が遊牧民の伝統に回帰する形で回り道することなく自由民主主義化を追求し、南部が新儒教主義を掲げ、チベット地区等が世俗化したチベット仏教に則りゆるやかに自由民主主義化を追求する、という形でこの三つの地域が互いに競い合いつつ平和裏に新三国志が展開していく、というシナリオが最も望ましいのですが、そうも行きますまい。

(完)

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