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太田述正コラム#2324(2008.1.26)
<世界帝国とその寛容性・包摂性(その3)>(2008.7.31公開)

 また別の書評子は、チュアのこの本を読み、自国である米国に思いをはせて次のように述べている。
 「米国は、徹底的に多元主義的であるけれど同時に排外的憎悪に間歇的に襲われる。米国は、軍事力によって統治をしたもののその被支配民をペルシャ化しようとはしなかったアケメネス帝国と、移民受入と寛容なる国内政策によってカカオ豆を安く買って高く売るといったことを行う商業帝国を構築したオランダ共和国とが結合した存在であるように見える。
 恐らく現在の米国に面と向かって軍事力で挑んで勝てる国はないであろう・・そもそも米国の敵はそんな事態に陥らないように抜け目なく立ち回っている・・し、山のような国家債務と巨額の貿易赤字にもかかわらず、米国は世界最大の経済大国であり続けている。
 米国は古からの問題・・凝集力の不十分さ・・に直面しているところの新しい種類の帝国なのだ。パックス・アメリカーナを擁護する人々は、米国に比べればちっぽけなあらゆる種類の国を侵略したがっているかもしれないけれど、米国の市民権をイラク人やイラン人や北朝鮮人やベネズエラ人に与えるつもりはさらさらないのだ。」

4 おまけ

 最盛期が余りにも短かったからということか、チュアが世界帝国の中にカウントしていないアレキサンダー大王の帝国とムガール帝国について、彼女はそれぞれ概要次のようなエピソードを紹介しています。
 
 アレキサンダー(Alexander the Great。BC356〜323年)は民族の違いなど眼中になく、打ち破った軍隊の最良の司令官達や兵士達を召し抱えることで自分の軍隊を強化して行った。
 紀元前331年、アレキサンダー率いる軍隊は、現在のイラク中部のヒラ(Hilla)市付近にあったバビロン(Babylon)を占領した。残虐で地域の疫病神視されていた独裁者、アケメネス朝ペルシャのダリウス3世(Darius3。BC380〜330。国王:BC336〜330)を追い払ってくれたというので住民達は新しい征服者を歓迎した。そして、彼らを一ヶ月にわたってご馳走責めにし、市の最も瀟洒な民家に宿泊させ、彼らに酒・食物・女を無制限に与えた。有力市民達は自分達の妻や娘まで提供した。高級廷臣達は様々な専門的サービスを提供した。夕食後には夜な夜なストリップショーが催された(注8)。

 (注8)言うまでもなく、チュアの念頭には2003年の米軍等によるバグダッド占領の時の対照的な様子がある。ちなみに、アレキサンダーが没するのはこのバビロンにおいてだ。(太田)

 ムガール帝国(Mughal Empire)のアクバル大帝(Akbar the Great。1542〜1605年。皇帝:1556〜1605年)は戦略的寛容性を実践した。
 そのうちの一つが「多文化的性交(multicultural copulation)」とも言うべきものだ。
 アクバル自身はイスラム教徒だったが、亡くなるまでに実に300人以上の妻を娶った。
 その中にはラージプト(Rajpu)(注9)、アフガニスタン人、南インド諸王国の姫君達、トルコ人、ペルシャ人を始めとして、ポルトガル系のキリスト教徒の女性2人まで含まれていた。

 (注9)ヒンズー教においてバラモン等と並ぶクシャトリアに属する有力グループで武勇をもって知られ、現在も彼らをインド軍将校に多数見出すことができる。(太田)

5 終わりに

 チュアは、戦前の日本帝国が宗教的正統性や人種的純粋性に固執したとしているわけですが、彼女はもともと歴史学者ではなく、しかも、日本のフィリピン占領時代を体験した支那系フィリピン人の両親の下に生まれたこともあって、日本について無知で偏見があると思われ、だからこそこのような誤解をしたのでしょう。
 この点を除けば、最初の書評子が指摘したように、チュアは歴史をやや単純化し過ぎているきらいはあるものの、そして私に言わせれば、2世特有の米国への過剰適応傾向が感じられる(注10)ものの、寛容性・包摂性を帝国形成・維持の必要条件とした彼女の考えは基本的に正しいと私は思います。

 (注10)フランシス・フクヤマの過剰適応性を指摘したコラム#1718、1719参照。

(完)

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