太田述正コラム#2307(2008.1.18)
<ガンジー・チャーチル・ホロコースト(その4)>(2008.7.26公開)

 以前(コラム#876で)「ホロコースト情報について・・、英諜報当局は、話が大げさ過ぎる、何で銃殺したり餓死させたりすればいいのにわざわざガス室までつくってユダヤ人を殺す必要があるのか、等の難癖を付け、仮に事実だとしても、戦争でドイツに勝利することこそユダヤ人を救う王道だ、などとして、結局チャーチル首相の耳にはこの情報を一切入れずじまいだった」と記したことがあります。
 これはいささか雑駁に過ぎました。
 より正確には以下のようなことだったのです。

 1937年9月にチャーチルは、ヒットラーに宥和的な、「われわれは、あなた方のドイツのユダヤ人に対する取り扱いがご立派なものであるとは全く思わないが、それがドイツ国内に限定されている限りにおいては関知するところではない。」という発言を行います。
 しかし、そのわずか3ヶ月後に彼は英下院で、「一つの人種がその生まれた地において拭い去られてしまおうとしていることは身の毛のよだつことだ」と述べています。
 1940年にチャーチルは首相に就任しますが、彼は翌1941年には、ソ連のドイツ占領地において組織的なユダヤ人殺戮が行われている事実をドイツの暗号解析の結果知ります。
 その年の夏、彼は「<ドイツに占領されたソ連の>全地域において<ユダヤ人は>絶滅させられた。われわれはまだ名前のつけられていない犯罪に直面している」と発言します。
 1942年の夏にはチャーチルは、その後も続けられたこの蛮行に、「冷血にして野蛮なる(bestial)<ユダヤ人>絶滅政策」という名前をつけます。
 その頃までに彼は、つきそい抜きかつ身分証明書なしの4,000人のユダヤ人の子供達を載せた列車が、ドイツ占領下のフランスのリヨンを出発してポーランドに向かったという情報を得ます。
 更に1942年12月、チャーチルはポーランドのレジスタンスの一員であったカルスキー(Jan Karsky)から数千人ものユダヤ人がかり集められ牛が牽く荷車に乗せられてポーランドのベルゼック(Belzec)に運ばれ、そこで殺戮されていることを知ります。
 このカルスキー情報を元に、チャーチルはソ連を含む連合国に働きかけて、ドイツにおける「冷血にして野蛮なる絶滅政策」を連名で非難します。
 そしてチャーチルは英空軍に対し、何とかせよと命じます。
 ところが、時の英空軍参謀長のポータル卿(Sir Charles Portal)は、ユダヤ人のために空襲を敢行することはドイツのプロパガンダを利するだけだと警告したため、チャーチルはしぶしぶこの言に従います。
 それでもチャーチルは、ノルマンジー大作戦の前に米軍兵士全員に、ドイツがユダヤ人に対して行ってきた残虐行為についてのドキュメンタリー映画を見せるように取り計らうのです。
 1944年7月4日に今度はチャーチルは、ポーランドのアウシュビッツ(Auschwitz-Birkenau)にハンガリーのユダヤ人が毎日列車で到着し、ガス室で毎日12,000人殺されていることを知ります。
 ユダヤ人の指導者達は連合国に対し、アウシュビッツに至る鉄道線路を爆撃するよう求めます。
 ついにチャーチルはイーデン外相に対し、英空軍にアウシュビッツに至る鉄道線路をただちに爆撃させるように伝えよ、必要ならいつでも自分が直接話をする用意がある、と付け加えます。
 しかし、英軍はこのチャーチルの指示を無視したらしく、少なくともアウシュビッツ近くの鉄道線路は連合国の爆撃の対象になりませんでした。ちなみにアウシュビッツは英国の爆撃機の行動半径外ではあったけれど、米国の爆撃機の行動半径内ではありました。
 また、チャーチル自身、自分の指示の結果がどうなったかを気にした形跡はありません。
 そして戦後の1946年、首相の座を降りていた韜晦の名人チャーチルは、英下院で、「私は、戦争が終わるまで、身の毛がよだつ殺戮が行われ、何百万もの人々が殺されていたことを全く知らなかった。終戦後、われわれは次第にその事実を知るところとなったのだ」と述べるのです。

 いかがでしょうか。
 チャーチルはイスラエル建国に決定的な役割を果たしただけでなく、ホロコーストとも、制約された条件の下で最大限戦ったと言ってよいのではないでしょうか。
 しかしそのチャーチルが同時に、英当局によって人為的にもたらされた1943年のベンガル大飢饉で大英帝国臣民たるインド人が大量に餓死する(コラム#27)のをあえて座視した人物であったこともわれわれは忘れてはならないでしょう。
 そもそも何人餓死したかすら、100万人説、200万人超説、400万人説等があって(コラム#27、149、210)はっきりしないことからも、当時の首相チャーチルを頂点とする英本国や英インド当局のこの大飢饉に対する姿勢がいかなるものであったか分かろうというものです。
 いずれにせよ、チャーチルのこのどちらのエピソードも、政治の非情さ、とりわけ戦時における政治の非情さ、を物語って余りあるものがあります。

(完)