太田述正コラム#2285(2008.1.6)
<1999年のマレーシア公式訪問記(その1)>(2008.7.20公開)

1 始めに

 1999年3月のマレーシア公式訪問の記録を転載します。
 これは、コラム#293、295、316の元資料です。
 なお、(脚注)はこのコラムのために書き加えたものです。

2 マレーシア訪問記

(1999.3.23 火)

0923:坂本さん運転の官用車に乗って出発。
1025:役所着。
1040:林さんとともに官用車で役所発。

(脚注)林さんは、防衛庁キャリアたる女性。

1140:成田空港着。
 チェックイン時に日航の職員現る。さくらラウンジまで案内される。情報本部の3名に出会う。(マレーシア、インド、パキスタン訪問予定とか。)
1300:テークオフ(JL723。私と岡将補はエグゼクティブクラス。)食事後発言要領に手を入れる。

(脚注)岡将補は統合幕僚会議事務局勤務の海将補。

 その後、キショール・マハブバーニの本を読み進む。

(脚注)東京でマレーシア人が書いた本(英文)を探したのだがなかったので、シンガポール人が書いた本を求め、持参したもの。
    キショール・マハブバーニ(Kishore Mahbubani)はマフバニと表示すべきだったようだ。マフバニはインド系であり、シンガポールの外交官として活躍し、現在シンガポール国立大学のリー・クアンユー公共政策大学院学長。
    ちなみに同氏は、昨年のタイム誌アジア版に「アジアの再生」という論文を寄稿している。
    この論文の中で、「同氏はまず、「文化に対する自信は発展の必要条件である」と指摘。英国の植民地だったインドをはじめアジア諸国では欧州の文化の優越性が民衆の心の底に刷り込まれていたとし、「日露戦争でロシアが日本に敗れて初めてインドの独立という考えが生まれた」とのインドのネール初代首相の言葉を引き、「20世紀初頭の日本の成功がなければアジアの発展はさらに遅れていただろう。日本がアジアの勃興(ぼっこう)を呼び起こした」と論じた。韓国の場合も、日本というモデルがなければこれほど早く発展できなかったと指摘。中国も、日本の影響で発展できた香港、台湾、シンガポールという存在がなければ、改革開放路線に踏み出さなかったとし、「日本がアジア・太平洋に投げ入れた小石の波紋は中国にも恩恵をもたらした」「(日本を歴史問題で批判する)中国でさえも日本に感謝すべきだ」などという見解を示した。」
http://www.netfont7.net/enjoybrowser/threads/ja/ttalk/ttalk.599658.html

1930(日本時間2030):25分早くクワラルンプール(以下、「KL」という。)国際空港着。北村1佐出迎え。国防省からも迎えが来ているはずが現れず。昨年できたばかりの新空港の立派さに度肝を抜かれる。車は日本と同じ左側通行。ラウンドアバウトは見あたらず。KLの夜景はニューヨークの摩天楼というおもむき。

(脚注)この黒川紀章によって設計された空港(後出)については、コラム#2283も参照のこと。ラウンドアバウト(roundabout)とは英国流のロータリーのこと。ロータリー交差点なら信号はいらない。

2012:ホテル日航着。1119室にチェックイン。
2030:野外のテントばりのレストランに移動。世界最高のビル2棟が見えている。間組と韓国の建設会社が1棟ずつ建てたもの。出てきた料理は5名で5000円程度とのこと。最後のタイすき的なべものもなかなかいけた。昨年11月のAPEC非公式首脳会議の際、小渕首相が宿舎から会場に向かっていたところ、警護官から武官に電話があり、「先導する白バイのやつら、道を知らないんじゃないか。同じ所をぐるぐる回っている。」とのこと。そのうち、自ら案内を買って出た白バイに先導されて動き出したが、今度はその白バイが車にはねとばされたとのこと。どうやら、人手が足らず、他の州から警官がかり出されたためらしい。なお、情報本部の人間は、武官によれば、マレーシア内で公式の予定はなく、武官との調整のみとのこと。木曜にはペナン(?)に向け出発するとのこと。

(脚注)世界最高のビルとはペトロナス・タワーのこと。台湾のビルやドバイのビルにどんどん抜かれている。

2300:ホテル帰着。

(1999.3.24 水)

朝食:ホテルのカフェSerenaにて。
0900−:万博会場のような国防省の建物。中もあまりばっとせず。まず、アジザ女史が同席で国防省事務次官(Secretary-General)表敬。Dato’ Hashim bin Meon DPMS KMN氏(1947年9月16日生。University of Malaya マレー学士。ロンドン大学Computer Management Studiesディプロマ。University of Southern CaliforniaのPublic Administration修士。Ministry of Human Resources、Public Service Department等を経て、セランゴール州政府高官(State Secretary)。現職には2月末日に就任したばかり。)日本には何度も行っており、一番最近では情報化を推進している岐阜県(姉妹州?)を訪問。秋葉原をこよなく愛す。新空港は「かの権威ある東大建築学科を卒業した黒川紀章」設計とか。好人物だが風圧ゼロ。プレゼント交換(当方、防衛庁写真集。先方、楯)。

(脚注)事務次官やアジザ女史(後出)の経歴を見ると、2人とも国防省採用のキャリア官僚ではなさそうだ。

0930−:MM協議。Under Secretary(Policy Division)のMiss Siti Azizah bt Abod がカウンターパート。(議事録。下掲)

(脚注)MM協議とはMilitary to Military(軍対軍)協議の略。

第一回日マ防衛定期協議(MM協議)について

日時:平成11年3月24日(水)0930〜1230
場所:マレイシア国防省 
当方出席者:防衛庁太田防衛審議官、統合幕僚会議第5幕僚室岡室長、同室山口三等陸佐、防衛局国際企画課林部員、北村防衛駐在官、小山2等書記官
先方出席者:国防省防衛政策局アジザ・アボド局長、アブドゥル・ガファー防衛科学技術センター長、国防省情報本部国際情報課ジャミル・ライス課長、防衛政策局政策課アジニ補佐、同課ハッサン・ジャンタン補佐、同課ワン・モハマド・アスラフ補佐、防衛政策局防衛計課スタルジ補佐、同課サイド・アブ・バカール・シディク補佐

第一回日マMM協議の内容以下のとおり。

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(脚注)議事録は省略する。
・・
 想像していた通り、アジザ女史(Siti Aziza bt Abod。1949年10月29日生。独身。マレー語・英語。1973年:University of Malaya経済学士、1976年:英国のポリテクニックのManagementのディプロマ、1981年:University of Southern CaliforniaのPublic Administration修士、1988年:豪州のJoint Services Staff College、通産省等を経て、1987年:Principal Assistant Secretary, Policy Division、1990年:Under Secretary, Policy Division(現職)。95年5月と97年5月に石附審議官(当時)が、96年8月に秋山防衛局長(当時)が、そして、97年7月に宝槻審議官(当時。ARF閣僚会合)が、それぞれマレーシアを訪問した際も、カウンターパートとして応対している。)等は、私の肩書きを、Deputy Director General, Defense Policy Bureauと言っていた。

(脚注)私の肩書きを防衛審議官(Defense Councilor。他省庁の官房審議官に相当)とせず、防衛局次長としていたということ。

 彼女は、昨日、国防省から空港に誰か迎えに行ったものと思いこんでいた。また、PKO訓練センターが閉まっているのをご存じなかった様子。

(脚注)PKO訓練センターとは、マレーシアのARTC:Army Recruit Training Centre(=陸軍新兵訓練センター)のこと。このセンターに自衛官をまた派遣して欲しいとアジザ女史が発言した。

 小生、途中、小用を催し、ブレーク。アジザ女史等がよくしゃべるため、せっかく、色々質問しようと考えていたのに、気が気でなかった。また、意外なほど、マレーシア風(?)英語が聞き取りにくい。大使館の小山(おやま)裕基君(2等書記官)に大いに助けられる。
 最後にプレゼント交換(当方、英文白書。先方、英文白書)。

1300−:ミンコート(Ming Court)ホテルコーヒーショップにて、マレーシア料理のバイキング方式のマレーシア側主催昼食会。アジザ女史は、近縁者が危篤状態(Comaに陥っている由)のため、欠席。代理を務めたのは、Director, Defence Science & Technology Centre のAbdul Ghaffar Bin Ramil, PhD(原子力。University of Birmingham)。名刺を挟んだ同センターのbrochureをもらった。
 この頃、ザマン・カーン(Datuk Mohd(モハメッド)Zaman Khan。英国Royal College of Defence Studies(1988年)の同期生)から、家内の名前の問い合わせあり。PhDの話によれば、ザマンはDatuk(=Sir。 Dato’?)である由。そういえば、RCDS当時、すでに名前にDatukがついていた。

(脚注)ザマン・カーンは英国のRCDSから帰国後、マレーシア政府の刑事局長を経て矯正局長。既に退官していた。

1430−:国軍参謀大学訪問。プレゼント交換なし。構内見学もなし。写真撮るのも忘れる。北村武官が1994年に在籍。校長によるブリーフィングを受ける。大学と提携してDiplomaを付与(オーストラリアでも有効)。1年間のコース。使用言語は英語。
1600:1万円をリンギット(以下、「リンギ」という。1リンギ=32円)に交換後、私、岡、山口、林の4名で市内観光へ。まず、タクシーに乗る。(岡支払い)
1 中央市場:ここで、20cm四方位の刺繍5枚とCD1枚(32リンギ)を、いずれも2階の店舗で購入。刺繍は、Songket Sutera Asli と言い、Malaysia’s gold cloth と称されている由。CDは定価で買ったし、刺繍も定価が付されていたので、値切らずに買おうとしたところ、少しまけてくれた。
2 ヒンドゥー寺院:修繕中で中に入れず。
3 クラン川の橋を背にして歩いた後、電車(モノレール?)の駅の傍らを通り過ぎた。この電車の路線は、JALがくれたKLの地図には記載がない。JALのサービスが悪いのか、KLの発展がそれだけ速いのか。
4 マスジット・ジャメ(回教寺院):見学時間が終わっていたので、門の中に入っただけ。
5 連邦政庁舎を眺めやる。
6 ムルデカ(独立)広場からセランゴール・クラブ(チューダー朝風の建物)を眺めやる。じとっと汗ばむ暑さと疲れでこのあたりでは意識朦朧。ここで、タクシー(運転手、英語しゃべれず)を拾った。(KLタワー「駐車」料金を含む。太田支払い)
7 KLタワー。1リンギ。展望台の中は暗かった。眺めは素晴らしい。タクシー(行き先に応じ案内嬢が固定料金を提示。我々は12リンギ)でホテルへ。(太田支払い)
2015−:ニッコーホテル内日本料理店「弁慶」にて、ザマンと私、林さんで食事。奥さんは急にこれなくなった由。(時間が遅れたのは武官予告通りとして、奥さんが突如来れなくなったのはいかにもザマンらしい。)ザマンはうなぎが食いたいと言うので、蒲焼きを注文。これにさしみ(1皿)と茶碗蒸し3個をつけた。ザマンは回教徒だが、十数年前に酒はやめた由。ウナギはあまりうまくなかった。ザマンはしゃべるはしゃべるは、とどまるところを知らない。RCDSへは、陸海空警察が代わる代わる行っている。かって、共産ゲリラ掃討は軍と警察が一体となって行ったが、現在でも警察は3個武装警察隊(?)を擁する。公務員は官舎を安く購入可能、また、官用車も安く購入可能とのこと。しかし、最近はこれら制度も変わりつつある上、民間企業人気が高まり、公務員人気は今ひとつとのこと。仕事で世界中の国にでかけた。行っていないのは、ロシア、及び太平洋上の島嶼諸国のいくつかのみとのこと。今回も、私の訪問を米国で知った由。RCDS以降、日本にも2回行った由。一回目は北九州(雲仙含む。この話しは、まだクリスマスカードの交換をしていた頃、ザマンから聞いた覚えあり。)、2回目は東京(2日過ごした由)。今度日本に来るときは必ず連絡してくれと言っておいた。

(脚注)RCDS時代のパキスタンの同期生(陸軍と空軍の軍人)も2人とも回教徒だったが、酒飲みだった。パキスタン以東のエリート回教徒はおおむねこんなものだ。

 メシ終了後、プレゼント交換。私と家内にそれぞれ贈呈辞入りのロイヤル・セランゴールのピューター(カップと花さし)。こちらのプレゼントは、お茶1包みとコースターに過ぎず、相手がその場で開けなかったので救われた思いがした。それにしても、ザマンも随分張り込んだものだという印象。

(脚注)ピューター(Pewter)とは、錫と他金属の合金の総称。
    「19世紀中頃、英領マレーのセランゴール州で、良質な錫の大鉱脈が発見された。そして1885年、ヨン・クーンという中国人が、中国古来の伝統技術の基礎と粗末な道具だけを携えて、マレーシアに渡って来た。彼は当時の上流階級や寺院のために、ピューターのポットやワインカップを作り始めたのである。マレーシア産の純粋錫を97%、強度と耐久性を加えるためにアンチモニーと銅を3%使用するという製造方法だ。その品質はまもなく評判となり、セランゴール・ピューターとして知られるようになったのである。1986年、セランゴール・ピューターは創業100周年を迎えた。・・1992年8月には、マレーシア国王から「ロイヤル」の称号を授かり、社名をセランゴール・ピューターからロイヤル・セランゴールに変更している。」
http://chinachips.fc2web.com/repoas/05016.html

 その後、ザマン運転のベンツにて、市内観光。最初に屋台の果物屋の出ている横町へ。ここで、マンゴスティーンとランブータンを食した上、山盛り2包みを買ってくれた。それから、KLの外周を一周りして、ザマンの家の前まで行った。想像していたよりこぢんまりとした家だった。どこに行っても、大きなテントを張ったような野外食堂だらけ。スラムのようなところは見あたらず。結局、(シーズンが始まったばかりの)ドリアンを売っているところがなく、最初の横丁まで戻り、ここでドリアンを大量に食わせられる。仕方なく全部食ったが、大変な味。ザマンはホテルまで送り届けてくれたが、ドアボーイが、私に「あれはザマンカーンではないか。」と問いかけたものだ。何たる有名人!

(続く)