太田述正コラム#2281(2008.1.4)
<スコットランドの近現代への貢献(その2)>(2008.7.18)

3 各論

 (1)アイケンヘッドの処刑(PP2〜12)

 1696年の8月、スコットランドのエジンバラを四人の大学生が歩いていた。
 そのうちのアイケンヘッド(Thomas Aikenhead)という神学専攻の18歳の大学生が、イエスの行ったとされる奇跡なんてウソだ、イエスの復活も罪の贖いの教義も神話だ、モーゼの方が政治家としても魔術師としてもイエスより上だ、この二人よりムハンマドの方が更に上だ、神と自然と世界とは一つであり永久に存在してきた、と語った。
 以前、アイケンヘッドはイエスは詐欺師だ、と語ったこともあった。
 これを聞きつけたスコットランドの検事総長は、アイケンヘッドの発言は1695年にスコットランド議会が制定した涜神法に触れるとして起訴した。
 この法律は、3回涜神した者は死刑に処することができる、ただし1回目の涜神であっても、神を直接涜神した場合は直ちに死刑に処することができる、と定めていた。
 当時のスコットランドにはイギリスと違って起訴の可否を評決する大陪審が存在せず、起訴するもしないも検事総長の完全な自由裁量に委ねられていた。
 そして小陪審は、有罪の評決を下した。
 当時のイギリスでは、宗教上の問題を世俗的な裁判所が扱ってはならないという考え方が既に確立していた。イギリス議会が1689年に制定した寛容法(Act of Toleration)はまさにこの考え方を体現した法律だった。
 しかし、スコットランドではそうではなかった。
 まだ世俗的な裁判所で魔女狩り裁判が行われており、1697年には2人の「魔女」が処刑されるという有様だった。(イギリス領北米植民地のマサチューセッツでも1692年に悪名高いサーレム(Salem)における魔女狩り裁判が行われている(コラム#2114)。)
 アイケンヘッドを処刑すべきではないと主張する人々も少なくなかった。
 彼らはイギリスの思想家のジョン・ロックとも連絡を取り合ってアイケンヘッドの救命運動を展開し、イギリスの共同国王であるとともにスコットランドの共同国王でもあるウィリアム3世とメアリーにも嘆願書を出したが、結局1697年の1月8日、アイケンヘッドは処刑された。

 (以上、PP2〜9より。)

 このスコットランドは当時、貧困にも苦しんでいた。
 1697〜1703年の飢饉では、人口200万人弱のスコットランドで数万人が死亡している。
 
→神懸かりと貧困とくれば欧州そのものです。まさに当時のスコットランドは欧州に属していたと思いませんか。(太田)

 (2)ジョン・ノックスの巨大な足跡

 スコットランドを神懸かりにしたのはジョン・ノックス(John Knox。1510?〜72年)だ。
 彼はたった一人でスコットランドのほとんどの人々にカトリシズムを放擲させ、カルヴィニズム・・スコットランドではプレスビテリアニズム・・を信奉させることに成功する。
 日曜に働いたら逮捕され、カーニバルもダンスも笛吹もバクチもカードゲームも劇場も禁止された。およそ共同で楽しむあらゆることが禁じられたのだ。違反者には教会が厳罰が科された。魔女に至っては焼殺された。

 しかし、ノックスのカルヴィニズムには、ユニークな点があった。
 ノックスは権力は神によって人民に与えられているとしたのだ。
 この点を敷衍したのがスコットランドのジョージ・ブキャナン(George Buchanan。1506〜82年)だ。
 ブキャナンは、1579年に上梓された著書の中で、人民は偶像崇拝と専制から自らの権力を守る権利と義務があると主張した。
 地理的意味での欧州最初の人民主権論の誕生だ。
 ジョン・ロックの人民主権論はノックスやブキャナンの説の二番煎じに他ならない。
 このノックスやブキャナンの説は余りに時代に先んじていた。
 彼らの説に人民が感化されたため、スコットランドはノックス死後、20年にわたってアナーキーな状況に陥ってしまい、この状況はスコットランド王のジェームス6世(後にイギリスのジェームス1世)が国王の権力を再強化することでようやく解消される。
 しかし、ノックスとブキャナンによって民主的運営が始められたプレスビテリア教会は、この民主的運営を一貫して続けることになる。

 (以上、PP15〜19)

(続く)