太田述正コラム#2276(2008.1.2)
<ヨーロッパ史序論習作紹介>(2008.7.16公開)

1 始めに

 1997年に書いた私の小論、ヨーロッパ史序論(未完)が出てきたので、まだ習作的なレベルにとどまっている上、典拠が付いていないという致命的欠陥があるものの、このところ私のアングロサクソン・欧州対置論に対する関心が高まっていることもあり、この小論を紹介することにしました。
 この小論では、イギリスとヨーロッパ(欧州)を明確に対置するには至っていませんが、その萌芽が見られます。
 なお、この小論ではイギリスとフランスなる国民国家が英仏百年戦争の結果生まれたとしており、同趣旨のことをコラム#96で繰り返したところですが、コラム#2055と2057で、フランスに関してはこれに留保をつけたところです。
 また、冒頭出てくるデュプイとは、Trevor N. Dupuy(
http://en.wikipedia.org/wiki/Trevor_N._Dupuy
)のことです。

2 ヨーロッパ史序論

 米国の軍事史学者T.N.デュプイは、史上最も強かった軍隊を6つ挙げている。アレキサンダー大王のマケドニア軍、共和制時代のローマ軍、ジンギスカンのモンゴル軍、英仏百年戦争前半のイギリス軍、ナポレオン時代初期のフランス軍及び第2時世界大戦初期のナチスドイツ軍である。
 デュプイのこの選択の妥当性はともかくとして、このうち世界史に最も大きな影響を与えたものはどれかと問われれば、筆者は躊躇なく百年戦争(1337〜1453)の時のイギリス軍だと答えるだろう。
 というのは、私は、この百年戦争によってヨーロッパの長い長い戦国時代が始まり、それが第2次世界大戦後の冷戦時代の終焉によってようやく英米を中心とするアングロ・サクソン連合の最終的勝利で幕を閉じたと考えているからだ。
 戦国時代という以上は、二つ以上の「国」と「国」の間で絶え間なく武力抗争が続かなければならない。ユーラシア大陸の西端のヨーロッパ半島においては、それまでも領域の支配権を巡って領主層の間の武力抗争が絶えることはなかった。百年戦争の目新しさは、従来型の武力抗争から出発しつつ、戦争を通じてイギリスとフランスという現存するヨーロッパ最古の二つの「国」、すなわちネーション・ステート(国民国家)が形成されたという点にある。
 百年戦争は奇妙な戦争である。この長い戦争における主要な戦役にはことごとくイギリス側が圧倒的な勝利をおさめる(下表参照)のだが、それにもかかわらず、イギリスはフランスの征服に失敗する。
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・ ・ クレシーの戦い(1346)・ ポワティエ(1356) ・ アジンクール(1415) ・
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・英・ 兵力12000=損害500 ・ 6000〜8000=40 ・ 5000 =500 ・
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・仏・   40000=  10000・ 30000   =5000・ 30000=9600 ・
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    (注)損害とは、死者の数と捕虜の数の和である。

 イギリスは百年戦争に何故敗北したのか。
 フランス側の方が、イギリス側より地域が広大で人口もはるかに多く、常に多数の兵力を個々の戦役に投入することができたため、イギリス軍は次第に疲弊して行くのだが、それができたのは、強力な敵の「侵攻」に直面して、フランス側に民衆を含めたネーション(国民)意識が生まれ、国民が一丸となってイギリス軍に抵抗するに至ったからである。これを象徴しているのが、一平民であるあのジャンヌ・ダルクの活躍である。 
 イギリス側においても、もともとノルマンジー公ウイリアムによる征服(1066年)以前からアングロサクソン人の統一国家ができていたこと、百年戦争の結果フランスにおける領土的足がかりをことごとく失い、大ブリテン島の東南部に領土が局限されるに至ったこと、更にはフランスにおける国民国家の成立に刺激されたこともあって、ここにもう一つの国民国家が確立する。
 いずれにせよ、記憶しておくべきことは、その後のヨーロッパ史の主役となる「国」=国民国家なるものは、百年戦争の過程で、戦争を遂行するために生まれたということと、百年戦争が一方による一方の征服という形では終わらず、英仏間で爾後も緊張状態が続いた結果、百年戦争によって始まったヨーロッパの戦国時代が長期にわたって継続したということである。周の時代の春秋戦国時代以外に戦国時代を知らない中国史や「万世一系」の我が日本史とこの「異常な」ヨーロッパ史を比べてみていただきたい。
 その後、ヨーロッパには次々に国民国家が生誕してゆき、これら国民国家群は、互いに戦争を繰り返しながらヨーロッパの中での覇権を争い、またヨーロッパ外への進出を果して行くことになる。そして、多かれ少なかれ、全世界がヨーロッパの戦国時代のまきおこした大波に飲み込まれていくのである。
 ヨーロッパの戦国時代を通じ、際だって有利な立場にあったのはイギリスだった。

 イギリスの優位は、

一、まず、ブリテン島の中での陸続きの敵対勢力として、スコットランドとウエールズという経済発展が遅れ、人口も少ない国ないし地域しかなく、フランス等の強力な敵対勢力からは海によって隔てられていたこと、
二、次に、イギリスが人口こそフランス等に比べて少ないものの、自然環境に恵まれていたこともあって、経済的にははるかに先進国であったこと、
三、しかもイギリス人は、(百年戦争の各戦役における戦いぶりを見ても分かるように、)軍事的天分にも恵まれていたこと

等に由来する。
 イギリスは、その有利な立場を生かし、ヨーロッパの戦国時代を基本的に軽武装で通すことができたが、イギリスのように恵まれた立場になかったその他の諸国は、生き延びて行くために、平素から強大な軍事力を常備する必要があった。
 ヨーロッパの辺境に位置していた国は、ヨーロッパに侵入していた異教徒等を征服し、駆逐し、更にはヨーロッパの外に進出して行くことによって国力の強大化を図った。アジア大陸に進出したのがロシアであるし、中南米大陸に進出したのがスペイン(ポルトガルを含む)である。
 ヨーロッパの中心部に位置していた諸国は、北はイギリスと北極圏、西はスペイン、東はロシア、南はイスラム教圏によって進出路を閉ざされていたため、専ら国内資源を増大させ、これを総動員する方策を追求せざるを得なかった。
 重商主義政策の採用や、絶対王政の成立は、このような文脈の中で理解されるべきであろう。
 20世紀に登場するファシズムやマルクス・レーニン主義は、この絶対王政の徹底ととらえるべきであろう。(宗教改革でさえ、戦争目的に宗教を活用するため、普遍的なカトリック教会から切り離されたナショナルな諸教会を作り出す必要から生じたと考えることも不可能ではない。)
 やがて、イギリスと共に、ヨーロッパの中心部に位置していた諸国も海外進出に乗り出して行くのだが、この間にイギリスの優位は、より際だったものになって行った。

 イギリスは長期にわたって常備軍らしい常備軍を持たず、軍事に投入する資源も少なくて済んだため、税金は安く、政府の力も相対的に弱いままであった。このおかげで、イギリスにおいては、ゲルマン時代に由来する自由の精神が減衰することなく、市民の創意、活力が十二分に発揮され、イギリスの政治・経済システムは他のヨーロッパ諸国に比べてより順調かつ均衡のとれた形で発展を続けるのである。
 イギリスは、ヨーロッパが統一され、戦国時代が終焉を迎えそうになる度に、その前に立ちはだかった。
 最初にヨーロッパ統一をほぼ実現したのはフランスだった。
 1789年のフランス革命は民主主義を標榜したが、西欧民主主義とは、民衆の政治参加意識を高めつつ、小数派を多数決によって切捨て、抑圧し、戦争に向けて民衆を動員して行くための方便であったと考えることもできる。徴兵制がヨーロッパで初めて採用されたのはフランス革命においてであったことを想起してほしい。
 フランスの野望は、ナポレオンが1815年に最終的にイギリスを中心とする反仏連合軍にワーテルローに敗れることによってついえさった。
 20世紀後中頃にはナチスドイツがヨーロッパを席巻した。ファシズムとは、国民と産業を戦争目的のために根こそぎ総動員するためのイデオロギーであった。
 イギリスは、このドイツの全体主義的挑戦を、かつて自らの植民地であった米国の協力のもとに、満身創痍になりながら退けた。
 残されたのは、ヨーロッパの辺境及びその延長地域だったロシア(及びその後継であるソ連)とイベロ・アメリカ(イベリア半島及びラテンアメリカ)だった。第2次世界大戦後、英米を中心とするアングロサクソン連合は、イギリスが堅持してきた、ヨーロッパ大陸に軍事プレゼンスを置かないとの百年戦争以来の方針を変更して、そこに平時から兵力を展開することとした。

(未完)