太田述正コラム#2259(2007.12.26)
<1991年の政務次官随行中東訪問記(その2)>(2008.7.11公開)

8月13日(火):朝、カーテンを開けると超近代的なジェッダの街並が目の中に飛び込んで来た。
 0900、1階ゴールデン・リーフ・ルームにて大使一行(大使、総領事、浅子書記官、保坂領事)からブリーフィングを受けた。(資料19「サウディ関係資料3葉」、資料20「サウディ・アラビア概況」、資料21「ジェッダ案内」、資料22「ジェッダ市街地略図」、資料23「湾岸戦争」、資料24「ペルシャ湾原油汚染の状況」参照。)資料の中に書かれていない部分は以下の通り。
 ・サウディは、経済関係統計等は整備されているが、1974年以来、国勢調査を行っていない。これは、現在1200万から1400万と見積られる総人口中、サウディ人は700万から800万しかいないことが明るみに出ることをいやがっているとの説が有力。
 ・サウディのイスラム教は、スンニ派の一派のワッハーブ派であり、原理主義である。日の出前、昼、午後、日の入り後、寝る前の一日5回お祈りをするが、その間は、店も閉じてしまう。女性は顔を隠している。また、観光目的の入国は認められておらず、公用、商用での入国及びその家族としての入国、更には巡礼目的での入国しか認められない。
 ・サウディでは、空港、橋等ありとあらゆるものが写真撮影禁止になっている。
 ・1902年にリアドに首都を定めたサウド家再興の主で、2メートル近い巨漢であったアブドル・アジズ王は、妻や子供が沢山おり、精力絶倫ぶりで知られている。しかし、決して好きで女色にいそしんだというわけではなさそうだ。ある部族と戦ったときのこと、腹部に重傷を負った同王は、戦いが勝利に終わった後、腸の飛び出した腹にさらしを巻いて和平調印式にのぞみ、引続き相手の部族長の娘と結婚式をあげ、その夜に見事懐妊させたという。このように同王は、実力と血族関係で周辺部族を帰順させて行った。
 ・同王の、認知された、従って王位継承兼を持つ男子は36名おり、王族の総数は現在6000人から10000人にのぼる。
 ・サウディでは、砂漠の間接民主主義的手法が生きており、過酷な独裁支配にはなっていない。周期的に、誰でも国王の所に行って訴えることができる。また、王族による集団指導的政治が行われている。しかし、王族でも優秀でない者は、どんどんポストから外される。
 ・サウディには金がある。サウディ人は、住宅購入の際、金を借りても、ある時払いのない時返さないでよい。医療費もただの制度がある。そもそも税金がない。このようなわけで、サウディの国内情勢には、10年から20年先を見通しても不安定要因はない。その先までは分からないが。
 ・今次湾岸危機に際して、サウディが石油を増産してくれたおかげで、石油価格が上がらなくて済んだ。
  (以下、ジェッダ関係部分)
 ・ジェッダは、かってサウディの首都であった。リアドに首都が移転してからも、夏の間は、リアドより若干涼しいこのジェッダに政府首脳のほとんどがやって来るため、ジェッダは、夏の首都といった趣がある。
 ・ジェッダの位置する紅海の西海岸地帯はヒジャーズと呼ばれ、イェーメン地方と地中海沿岸を結ぶかっての隊商路が通っていた。
 ・ジェッダの位置する紅海の西海岸地帯はヒジャーズと呼ばれ、イェーメン地方と地中海沿岸を結ぶかっての隊商路が通っていた。
 ・ヒジャーズにはカーバ神殿のあるメッカ(マッカ)とイスラム教教祖ムハンマドの終えんの地であるメディナという2大聖地があり、サウディの王は、この2大聖地の守護者というタイトルをいただいている。
 ・メッカへの巡礼は、年間百数十万人にのぼるが、そのうち外国から訪れる者が80万人ぐらい。陰暦の9月は断食月で、10月と11月は巡礼準備月。巡礼月は12月で、その10日にメッカ郊外のアラファトに立つことが最も望ましいとされている。
 ・イスラム教国からサウディに来ている大使は大変だ。毎年イスラム教徒の千人に一人は巡礼に出る。インドネシアの例で言えば、1億人のイスラム人口があるので、10万人が巡礼月にサウディを訪れることになる。その間、死者が毎日数十から数百人出るが、インドネシア政府は、200名もの医療チームを派遣して来る。今年は、スハルト大統領自身が巡礼にやってきた。
 ・各国政府とも、巡礼には相当金を使っている。例えばナイジェリア政府は、自国民の巡礼一人一人に30万円相当の金を渡している。
 ・巡礼は、主として飛行機でサウディ入りし、ジェッダ等からバス1万2千台でピストン輸送され、テントで寝泊まりする。具体的には、サウディ政府と各国政府が調整して輸送等が行われるのだが、サウディの組織力にせよ、インフラストラクチャーにせよ、大変なものである。ジェッダのアブドル・アジズ空港一つとってみても、成田空港の実に20倍の広さがある。
 ・ジェッダは、メッカまで50から60キロの距離だが、昔、巡礼の船の泊地に指定されていた。メッカからの帰りに、巡礼はジェッダで必ず土産を買った。戦後、日本の商社員達は、そこに眼をつけ、巡礼月にテントに泊まりこんで日本の製品の販売に務めた。ソニーは、今でも新卒の社員2名をテントに寝泊まりさせる。このように、営営と努力を続けてきた結果、今や、みんながおみやげに日本の電化製品を買うようになった。
 ・サウディでは、トヨタや日産の車が大流行だ。少し前までは、高級車だけはドイツ車だったが、トヨタがレクサスを出してからは、高級車も日本車だということになった。日本の外相がサウディを訪問した際、サウディの外相が自らレクサスを運転して出迎えたというエピソードがある。
 ・ところが、湾岸戦争の時、日本が人的貢献をしないものだから、これまでの努力がパーになりかけた。従って、掃海艇の派遣は大ヒットだった。おそまきながら日本も汗を流したと評価されたからだ。

 なお、当方より大使館に対し、湾岸危機中のイラク駐在武官白石義行1等陸佐及び外務省北米1課企画官に出向させた中司崇(ナカツカサタカシ)1等空佐の情報収集目的での受け入れ(それぞれ、1991年1月7日ー3月13日、1月12日ー3月29日)に対し、謝意を表明。

 1100市内視察へ出発。時々サイレンを鳴らす赤ランプ付きの先導車の誘導に従う。アッサラーム宮殿を対岸に眺める海岸公園には、世界の作家が作った彫刻群が立ち並ぶ。(偶像崇拝を嫌うイスラム教の伝統に照らせば、大変珍しいものであるとか。)ついで外国の王族のサウディ公式訪問時に使用する迎賓館群が見えて来る。それからサウディ最初の学校、壁から張り出した木製の窓を持つロージャーン建築の家(木材は、インド等から輸入しなけらばならず、富の象徴だったという。千夜一夜物語に、しばしば、間男が帰ってきた亭主から身を隠すため、この窓にぶら下がって難を逃れたり、腐っていた窓が抜けて墜落して大怪我をしたというくだりが出て来るとか。)、かってオスマン・トルコ時代末期にジェッダ代官を務めたナシーフ家の旧宅等に案内される。また、あのアダムとイブのイブの墓があったのには驚いた。改めてユダヤ/キリスト教とイスラム教との強い結びつきに思いを馳せる。高層マンションが立ち並ぶ地区も通った。遊牧民のベドウィンの定着化を図るためにサウディ政府が建てたが、人気がなく、殆ど空き家のままになっていたところ、湾岸危機で逃れて来たクウェート人達に仮の住居として提供され、使用された由。我々の迎賓館に戻る直前、海中から吹き上げる大噴水が目に入った。
 1245に迎賓館に戻り、休憩後、国防省ジェッダ事務所におもむく。国防相との会談は1300にセットされていたが、サウディ等では、昼食が遅く、これでも午前中にあたる。警戒は厳重を極め、太田のアタッシュケースも控え室に置いていくように要請された。会談直前になって、持参を許すと言われたが、結局プレゼントだけを持って中へ入った。 
 殿下スルタン・イブン・アブドル・アジーズ・アル・サウド(His Highness Sultan Ibn Abdul Aziz Al Saud)第2副首相兼国防・航空大臣との会見は、先客が長引いたため、1320から行われた。同殿下はアブドラ皇太子に次ぐ王位継承権者、つまりサウディのナンバー3だという。会見室にはテレビ局を含め、マスコミが多数詰めかけていた。(後刻、テレビニュースでも報道された。)通訳は浅子書記官(アラビア語)。(会談内容については、資料25「エグチ防衛政務次官とスルタン国防相との会見(公信)」)会談終了後、プレゼント交換。
 1415頃からレバノン料理屋「イルディズラール(Yildizlar)」にて恩田大使主催昼食会。他の列席者は、塩谷総領事、浅子書記官及び保坂領事。話題は次の通り。
 ・クウェートは、石油収入を金融に使ったが、サウディは電気、水、道路、都市造りといったインフラストラクチャーの整備と石油産業を中心とする工業化に力を注いだ。
 ・サウディの王族がぜいたくをしているのは事実だし、これを批判する者もいるが、石油収入の大部分は国造りに充てられており、国民の大方はこれまでの政府の政策に満足している。従って、反王政ムードはそれほど強くない。
 ・サウディの石油政策は、石油価格を余り高くすると、サウディの収入が一時増えたとしても、世界の国々に喜ばれないし、省エネルギーをもたらして結局長期的には損になるというものである。この、石油を喜んで使ってもらいたいという政策は、日本の利益とも合致している。
 ・このようなサウディの考え方からすれば、日本が湾岸に110億ドルを拠出してくれたのは喜ばしいが、その財源に充てるため、石油税を上げたのは問題だということになる。
 ・サウディの石油は、100年は枯渇することがない。日本ではリッター115円位するガソリンがサウディでは20円。一方、ミネラルウォーターはリッター30円位なので、水の方が高い。水道の水も、海水を蒸留して作ったものが大部分であり、本当はガソリンより高いのだが、補助金が出ており、安く抑えられている。
 ・首都リアドの水も、海水を蒸留して作った水をパイプラインで運んで来たものだ。リアドの木の1本1本の根元に小パイプで水がひかれており、よく見ると時々ちょろちょろと水がでている。
 ・湾岸戦争がうまく行ったのは、サウディを基地にできたからだ。良く整備された港湾、空港、道路があったこと、特に広大な空港に米空軍を中心とする各国空軍機を幾らでも収容できたことが大きい。もう2度とこのような好条件下での戦争はできないのではないか。

 1530迎賓館に帰って休憩。ようやくア首連での日程が固まった旨、連絡を受ける。同国の参謀総長との会見は17日朝(資料26(公信))。このため、ア首連出発時刻を大幅に繰り下げることとなり、フランクフルト立ち寄りは断念せざるを得なくなった。また、サウディ政府用に用意したプレゼントが2つ余ったので、総領事館にしかるべき高官に渡してもらうよう依頼。(渡し状とそれに対する礼状については、資料27)
 1630買物に旧市街へ出発。金細工屋を覗いた後、旧市街のはずれの絨毯屋(Saeed Kuliab Trading Est.)で日本へ持ち帰る公的おみやげを購入。中東に金細工屋が多いのは、財産の保全のため、少しカネが出来ると金に替えようとするからとか。
 再び迎賓館で休憩をとった後、1900塩谷ジェッダ総領事公邸着。1910からアラブ・ニュース紙ナクシャバンディ(Hani Naqshabandi Al Sharq Al Awast)記者のインタビューを受ける(資料28「アラブニュース紙インタビュー」)。通訳浅子書記官(英語)。この通訳の出来は素晴らしい(この資料28参照)。なお、アラブニュース紙は英語紙だが、サウディではアラビア語紙と英語紙が並立している。テレビ放送もアラビア語放送と英語放送がある。(この事情はア首連でも同
じ。)
 1930から恩田大使やジェッダの日本人会長の松本邦昭住友商事ジェッダ事務所長をまじえて塩谷総領事主催夕食会(和食)。この他の列席者は、浅子書記官、保坂及び金井領事。湾岸戦争を教訓に、「有事」における海外在留邦人の政府による保護につき、同会長から資料を踏まえて、るる陳情を受ける(資料29「湾岸危機を契機とする緊急提言」、資料30「緊急事態における邦人保護の諸問題」)。懇談内容の要旨は次の通り。
 ・現在ジェッダを含むサウディ西武地区には日本人は270名いるが、湾岸前の最盛期には600名だった。まだ家族は戻ってきていない。
 ・サウディには金があるので、何でも外国から入っている。例えば、キャビアはソ連とイラン(これは密輸)から輸入されている。
 ・日本の掃海部隊は、PRがうまくない。もっと現地マスコミ対策に意を用いる必要がある。
 ・スルタン国防相のもとにある正規軍のうち、空軍はしっかりしているが、地上軍は駄目だ。一方、アブドラ皇太子のもとにあるナショナル・ガードは部族単位で構成されており、精強だ。このように、サウディには二つの「軍」があり、互いに他を牽制するシステムになっている。
 ・湾岸危機の影響といえば、エジプトやサウディが保守化したことがあげられる。
 エジプトについては、エジプト航空が酒を出さなくなった。サウディについては、もともと無線機やFMは輸入禁止というお国柄だが、湾岸後は、麻薬撲滅運動が行われており、先般も麻薬仲買人の公開首切り処刑が行われた。
 ・防衛政務次官による中東訪問は、浜田次官の1977年以来と承知。商社は人が変わっても継続性を重視するので、こういう情報はお手のものだ。(松本)
 ・住友は、サウディ内の3箇所に事務所を設けているが、私のジェッダ事務所が総取扱高の7割を占めている。これは、ジェッダにサウディの石油公社であるサマレクの本社があるからだ。(松本)
 ・湾岸危機の時、ジェッダの総領事館でCNNすら受信できないことが問題になった。住友の事務所には入っていた。大使館や領事館は、ニュースを提供してくれることが生命なのに、これでは困る。
 ・湾岸危機を通じ、官民の間に意識のずれがあることが気になった。(この点を何度も繰り返したが、具体的には語らず。)(松本)

 2215公邸を辞す。

8月14日(水):0835大使一行と共に朝食。大使の御示唆に従い、迎賓館のマネジャーに200ドル心付けを渡す。迎賓館の警備官に断わって、本来は撮影禁止の迎賓館の外観の写真を撮ってから、0940同館発。
 0955ジェッダ空港VIPルームに入り、1030サウディアラビア航空SV430便テークオフ。次官と恩田大使はもとより、浅子書記官もファーストクラスなので、太田も差額料金を払って並びの席のお相伴にあずかる。
 1200首都リアド着陸。出迎えは、中川書記官、大村書記官及び松澤派遣員。VIPルームで、次官、腹の具合いが良くないと訴えられ、浅子書記官からパンシロンをもらい、服用。また、「リアド案内」(資料31)を受け取る。
 空港を出て、まず、サウド王家再興の主で、その後の歴代のサウディ国王の父君にあたるアブドル・アジズ王がリアド奪還後、20世紀初頭に政庁を置いた質素な執務宮殿(ムラッパー)跡を見学。次に、そのアブドル・アジズ王が1902年、敵対関係にあった土豪に支配されていたリアドを奪還すべく、亡命先のクウェートから、長駆同志とともに奇襲をかけたリアドの代官所(リアド城。マスマック)跡におもむいた。土豪の代官はこの城の中で殺害され、ここにサウド家は、リアド地方の太守として再興することになったという。奇襲部隊が入口の木製のドアに槍を突き立てて開けようとした跡とか、代官が致命傷を負わされた階段、更にその階段を登って入った部屋で代官が息絶え、血がしたたり、その部屋の真下の玄関間の天井に血痕として残っているところ等を見学した。
 リアド市内では、イラク軍のスカッドミサイル攻撃で破壊された学校跡が車窓から見えた。今回の旅行中、湾岸戦争の直接的傷跡を目にした唯一の機会だった。
 1330、外交団居住地区内にある大使公邸着。中に客室がいくつかあり、次官と太田は、それぞれ1室を与えられる。居間に戻ったところで、大使の若い奥様が呼びにやられ、挨拶に出てこられた。フランス料理の昼食が始まったが、次官の箸が進まない。医官の診察を受け、昼食ぬきで休息をとられることになった次官としばしお別れして、太田は午後、浅子書記官の案内でリアド郊外の見学に出かけた。
 まず、18世紀中頃にリアド地方に勢力を張っていたサウド家の祖先の都城跡、ディライア遺跡におもむき、中を見学した後、リアド市街を横断して反対側の郊外へ出た。 
 リアドを出て少し行ったところで、「関所」で車を止められた。身分を証明するものを持っていなかったりすると、車から引きずり下ろされるという。調べ方等は、かなりし意的だそうだが、係官は、別段金に困っているわけではないので、見過ごしてもらおうと金を包んで渡そうとするとかえって逆効果らしい。車窓から、ベドウィンのテント群も眼に入った。やがて切り通しを抜けると、砂漠のまっただ中にリアドのグランドキャニオンと呼ばれる大断崖が見えてきた。そのあたりでUターンして引き返す。
 最後にリアド市内の王宮地区を車で回ってもらう。
 1730から夕食(和食)。次官はこの食事もパス。食事中に大使より以下の話があった。
 ・スルタン殿下が次官との会談の際、次官からなされた両国軍関係者の相互訪問等の人的交流の提案に対し、慎重な答えぶりをしたのは、このところ、欧米各国からの武器の売り込みが激しいので、次官の話も、売り込みがらみの話だと誤解したためではないか。
 ・日本の民間企業の人々の多くは、日本政府の湾岸危機への対応ぶりに批判的だが、日本経済の強さを過信しているのではないか。フセインは、クウェートに引続き、サウディにも侵攻しようとしていた。フセインがサウディまで手に入れていたら、石油市場はフセインの思うままで、米国経済、世界経済は大混乱に陥る。そうなれば、日本経済も駄目になる。このことを彼らは理解していない。

 1830公邸を発ってリアド空港に向かう。この空港は世界一広いのだそうだ。本当は禁止されているのだが、ターミナルの前で写真をすばやく撮る。
 1930ガルフ航空GF168便がテークオフ。この便にはエグゼクティブクラスがなかったので、太田はエコノミークラス。手荷物が多いので、窮屈でならない。聞けば外務省は、課長級以上が海外出張するときは、必ずファーストクラスとか。機内で出された食事を再び太田はきれいに平らげる。次官はこれもパス。アブダビ着陸は、現地時間の2215。サウディとは1時間の時差がある。
 米山揚城(タテキ)在ア首連大使(前通産省中小企業庁次長)、大野元裕(モトヒロ)調査員(国際大学(新潟県)中東研究所勤務。外務省から、アラブ諸国の人脈研究を委嘱されている。)、浜松派遣員、田中聡(サトシ)防衛庁防衛局運用課部員(派遣掃海部隊の湾岸諸国との渉外業務を支援するために長期出張中)らが出迎えた。ア首連側からは、少將アフマド・サーレム参謀総長補佐が出迎え、VIPルームで休憩、懇談。(資料32「アブダビ空港における懇談要旨」)。また、大使館より、16日夜、翌17日朝の日程を勘案し、ドバイではなくアブダビに泊まる件につき、再度確認を求められ、これに同意する(資料17(前出)参照)。
 2330アブダビ・インターコンチネンタル(Abu Dhabi Intercontinental)着。このホテルは日系(西武セゾン)ということになる。「UAEガイド」(資料33。UAE=United Arab Emirates=ア首連)、「アブダビ案内」(資料34)及び「ドバイ案内」(資料35)を受け取る。なお、田中部員は、我々のア首連滞在間、同じホテルに宿泊。また、ア首連側の警備担当官であるスルターン・アブドッラー氏も同じホテルに泊り込んでいる由。

(続く)