太田述正コラム#2253(2007.12.23)
<辰野金吾>(2008.7.9公開)

1 始めに

 自衛隊専門新聞「朝雲」に1990-1993年の間、隔週74回にわたって連載された私のエッセーの中から、拙著『防衛庁再生宣言』に収録されなかった一篇(2回に分けて連載)をご披露しましょう。
           
2 辰野金吾

 いつも見慣れている風景の中にもドラマがある。先日東京駅のステーションギャラリーで開かれている「東京駅と辰野金吾」展に招待され、あわせて東京駅の見学をしてきた。
 赤煉瓦の東京駅を設計した辰野金吾は安政2年生まれ。明治21年に東大建築学科(当時は工部大学校造家学科)を5人の初代卒業生中の首席で卒業し、政府留学生としてイギリスに4年間派遣される。帰国後は、母校の学科の最初の日本人教授となり、また日本で初めて建築設計事務所を設立した。そしてその生涯を通じ、東京駅のほか、日本銀行本店、奈良ホテル、両国国技館(現存せず)、朝鮮銀行(ソウル。現韓国銀行)、霊南坂教会等の数々の記念碑的建築を設計した。

 辰野が東大工学部(当時工部省工学寮)を受験したときには、83名中20名が合格したが、彼は不合格で、かろうじて聴講生として通学が認められ、後日再試験を受けてやっと正式入学が認められている。
 後に仏文学者として令名を博すことになる息子の隆がまだ小さいとき、彼は繰り返し「自分は一度でも秀才であったためしはない。然しいかなる秀才も自分ほど勉強家ではなかった。秀才が一度聞いて覚えることは自分は十度たずね、二十度質して覚えた。」と語って聞かせたという。

 もっとも、クソ努力をしているだけでは人間なかなか浮かばれるものではない。
 辰野は、人生の初期に三度好運にめぐりあい、自らの才覚でその三度の好運を自分のものにしている。
 一つ目は明治初年に一年間だけ設けられていた唐津藩の藩校で、東京の借金取りをくらませるため偽名で英語教師として赴任してきた、後の総理大臣高橋是清と出会ったことである。辰野は、高橋の上京を追いかけるように上京し、広い世界に飛び出して行くことになる。
 二つ目は東大で専門課程に進学する頃、建築学科の設置が決まり、正式の教授もいないという、他の学科では考えられない状況であったにも関わらず、辰野が敢然この学科を選んだことである。
 辰野金吾にとって、三つ目の好運は渋沢栄一と出会い、そのパトロネージを得たことである。
 渋沢は、500余の企業の設立、運営に携わり、日本の資本主義の産婆役として余りにも有名な人物である。その渋沢は、明治維新以前に慶喜の弟の徳川昭武の洋行に随行し、1年半をナポレオン3世治下のパリで過ごした。パリの豪壮華麗な街並に心酔した渋沢は、その生涯にわたって東京で本格的な街造りをしたいという夢を抱き続けた。彼の人生の悼尾を飾るのが、あの田園調布の建設であったことはご承知の人も多いことだろう。
 渋沢の情熱の最初のはけ口となったのは、兜町であった。ここに明治6年、彼の肩入れで第一国立銀行(現在の第一勧銀)が生まれる。しかし、これを皮ぎりに兜町に建てられた建物には、和洋折衷の擬古風のものが多く、洗練された渋沢の嗜好には合わなかった。
 明治10年代の半ばに至ると、再び兜町で建築ブームが起きようとしていた。明治16年、銀行集会所(銀行協会)の新築にあたり、当時43才だった渋沢は、工部省の知合いに本格的な建築家の紹介を依頼し、推薦されたのがつい半年前にイギリス留学から帰ったばかりの弱冠30才の辰野だった。辰野は、よくこの期待に応え、明治18年、彼にとっての処女作にあたる本格的な煉瓦造り建築を仕上げた。その後、辰野は渋沢自身の邸宅を含め、渋沢の息のかかった建築を兜町で次々に手がけ、建築家としての名声を確立する。
 二人はどちらも熱烈な愛国者であったが、官尊民卑の風潮がはびこっていた当時にあって、渋沢は企業の自由競争の活力を信じ、辰野は帝大教授の地位よりも市井の一建築家としての自由を尊んだ点で肝胆相照らすところがあったのであろう。

 とまれ、辰野のライフワークの一つである東京駅は、関東大震災にはびくともせず、第二次大戦中の米軍の空爆にはさすが若干その姿を傷つけられたものの、いまなお美しく健在である。

3 終わりに

 当時は私もまだ防衛庁に完全に見切りをつけてはいませんでした。
 私自身も、そして防衛庁も、せめてあの頃に戻れたらいいなと痛切に思います。