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太田述正コラム#2129(2007.10.17)
<日本帝国の敗戦まで(その2)>(2008.5.12公開)

 最後に当時の日本人達の、いたずらに昂揚していた戦意についてだ。
 サイパン島が占領された時、何千人という日本の市民が、征服者たる米国の下に出頭するより、自殺することを選んだ。大部分は崖から飛び降りて・・。
 宇垣纏海軍中将(1890〜1945年)は日記『戦藻録』にこう記している。
 「戦死すべきは兵士であって、多数の女性・子供・老人がよるべきなきさびしい島で捕らわれるより死を選ぶとは何という悲劇だろうか。大和民族以外の誰にこんなことができようか。もし1億の日本人が同様の決意を示すことができれば、勝利の方法を見出すことも困難ではなかろうに」と。
 これは、戦争末期における日本の指導層の精神の端的な現れだ。彼らは、軍事能力における巨大な不足を人的犠牲、日本の歴史的「大和魂」で代替できるという幻想を共有していたのだ(注2)。

 (注2)後に特攻隊と深い関わりができた宇垣(当時第5航空艦隊司令長官)と、宇垣と海軍兵学校同期の大西瀧治郎(1891〜1945年。当時軍令部次長)の2人は、それぞれ8月15日とは8月16日に特攻攻撃の形をとった自殺で生涯を閉じている。(太田)(それぞれの日本語版ウィキペディアによる。)

3 戦中の日本人の蛮行

 日本の兵士達は無限とも言うべき勇気を持ち、また、将校達はかくも知的で教養があった(literate and civilised)というのに、彼らが人道主義と戦時国際法に反し、敗者や被支配者に対して組織的に蛮行を行うという非文明人的なことをやったのは不思議だ。おまけに、彼らはいまだに蛮行を行ったことを否定しているときている。
 英国・フランス・オランダだって被支配者たる人々に対して恥ずべきことを多々行った。
 しかし、それは日本の帝国主義者達が行った蛮行には比ぶべくもない。

 日本の軍人達が、恣意的にかつ大量に軍刀で支那人の首を切り落としたり棍棒で殴ったり銃剣で突き刺したりしたことからすれば、これらを個々の将校や兵士が命令無しに勝手にやったという抗弁は到底受け容れがたい。
 このほか日本軍が支那人に対してやったこととしては、例えば満州で、当時19歳の、強制されて日本人のための慰安婦になっていた農民の娘が、彼女の同僚が妊娠した時、日本人達が「この可哀想な子を木にぶらさげ、村人達の目の前でその腹を切り裂いて殺した。赤ん坊が動いているのが見えた」と証言したような事例がある。
 また、日本軍の捕虜になった英豪米人の四分の一以上が命を落とした。
 これはナチスドイツ軍がロシア人やユダヤ人の囚人に対して劣悪な処遇と暴力でもって引き起こした死と同程度であるとはいえ、英豪米人にとってはとんでもないことだった。
 ここでもやはり、日本軍は捕虜に対して仕方なくではなく、政策的に虐待を行ったとしか考えられない。日本軍内におけるサディスティックな風潮の蔓延は制度的なものであったに違いないということだ。
 まさしく日本軍は、ナチスドイツのSSに匹敵する蛮行を行った、と言わざるをえない。 ソ連軍だって同じようなことをやったけれど、少なくともソ連軍は、ドイツ軍や日本軍のようにこの種の蛮行を自慢したり褒めそやしたりすることはなかった。
 蛮行を行ったのは軍人だけではない、ということも指摘しておこう。
 日本に対して戦略爆撃を行って捕らわれたB-29の乗員の中には、日本人の医師達によって、何のためらいもなくして生体解剖されたケースがあったことを思い起こして欲しい。
 もっぱらこのような蛮行のせいで、戦争中、日本がアジア・太平洋地域で死に至らしめた人数は、ほとんどナチスドイツが欧州で死に至らしめた人数に近い。支那人だけで、実に1,500万人から2,500万人が死んだのだ。
 ところが、ドイツが30億英ポンド近くの賠償金をヒットラー時代の150万人に支払ったというのに、日本は戦争中の犠牲者に対する責任を一切認めようとせず、いわんや賠償金などびた一文も払っていない。

 こういう話をすると日本人は、英国人等の捕虜が沢山死んだのは、日本軍の処理能力を超える人数の捕虜が1942年に発生したからであるし、日本軍自体食糧も医薬品も不足していたのであって、捕虜も乏しきを分かち合っただけだと抗弁する。そもそも連合軍の日本軍捕虜に対する扱いも決して誉められたものではなかったではないかとも言う。
 しかし、食糧が十分あった時でも捕虜には満足に食事が与えられなかったことからすると、これは抗弁になっていない。
 なお、日本軍兵士は、指導のせいもあって捕虜になることを潔しとせず、中には投降するそぶりをして攻撃をしかける者もあった。だから本当に投降するつもりで殺された者がいたことは否定しない。。
 また、日本人のインテリは決まって、米国だって日本を戦略爆撃し、更に原爆攻撃し、一般市民の大虐殺という戦争犯罪を犯したではないかと言う。
 しかし、これだけの蛮行を支那の人々に対して行い、彼らに口舌に尽くしがたい悲しみやと惨めさをもたらした日本が、米国に対してそんなことをよくまあ言えたものだ。第一、原爆投下は、それによって死んだ人々よりもはるかに大勢の人々の命を救ったのだ。

4 スコットランド人のヘースティングスへの批判

 近年英国からの独立志向を強めているスコットランドの新聞の書評子だけは、ヘースティングスに対し、以下のような根底的な批判を浴びせています。
 
 ヘースティングスの視点は完璧なまでに英国人(含むオーストラリア人)と、より少ない程度において米国人のものだ。
 彼は日本の蛮行を指摘するが、いかなる国民も、長い歴史を振り返れば、恐らくモナコとリヒテンシュタインを除き、手に血がついていないものはなかろう。
 そのヘースティングスは、日本帝国の敗戦をテーマとするこの本の記述を1944年から始めることはできなかった。
 彼は1931年9月18日の満州事変勃発から話を始めることを選んだのだ。
 しかし、日本の関東軍は1931年に満州の辺境で一体何をしていたのだろうか。
 そのことを考えれば、本の記述を1902年に日本が英国の同盟国になった時の話から始めなければならなかったことが分かろうというものだ。
 これは、一人ぼっちの島国であった日本が初めて結んだ同盟だった。
 その直接的帰結が1905年の、日本艦隊によるロシアのバルチック艦隊の撃破だ。
 この時の日本の旗艦の三笠はイギリスのバロウ(Barrow)で建造されたし、東郷平八郎海軍大将(1848〜1934年)は英海軍大学に学んだし、英国の将校が彼の傍らに立って彼に「助言」したのではなかったか。

5 終わりに

 私は上記スコットランド人の書評子とほぼ同じ見解です。
 ただし、私に言わせれば、近現代の東アジア史の起点、すなわち先の大戦のアジア・太平洋版・・やはり「大東亜戦争」と言わないと舌を噛みますね・・を話すにあたっての起点は、「横井小楠(1809〜69年)がロシア脅威論を展開し、日本も米英に倣って自由・民主主義的政体を採用し、かつ米英と提携しつつ富国強兵に努め、支那の覚醒を促すとともに支那をロシアから守るべきことを勧めた」ところの「国是三論」が上梓された1860年(コラム#1609)に遡るべきなのです。

 この点さえおさえれば、どうして大東亜戦争当時の「日本人達<が>、1941年の<米国等に対する>開戦時<に>、ドイツ人達が1939年に開戦した時よりはるかに熱狂的だった」か、どうして「日本の兵士達の戦いぶり<が>凄まじかった」(コラム#2127)のか、どうして「日本人達の、・・戦意<がかくも>・・昂揚していた」(上述)のか、そしてどうして当時の日本人達が「勝利できると信じ込んでいた」(コラム#2127)のかは自ずから明らかです。
 それは、当時の日本人が、おしなべて上記の横井小楠の考え方・・私はこれを横井小楠コンセンサスと名付けた(コラム#1613)・・を当然視しており、当時までの日本の対外政策の基本的な正しさを確信していた、ということなのです。
 これはナショナリズムのせいでも、もちろんファシズムのせいでもなく、いわんや軍国主義のせいでもないのです。

 しかし、ヘースティングスが言うところの幻想を抱いていた米国は、そんな日本、そしてアングロサクソンの生来的同盟国である自由・民主主義的な日本、を開戦へと追いつめ、日本人を何百万人のオーダーで惨殺した挙げ句、日本に敗戦の憂き目を見させたのです。

 最後に一言。
 日本・米英等双方による蛮行の問題は、この本の中でではなく、別途取り上げられるべき問題であることが恐らく分かっているはずのヘースティングスが、それでも執拗なまでにこの問題を取り上げざるをえなかったのは、先の大戦当時に英国人が抱いていた大英帝国維持という幻想ならぬ、ヘースティングスら英国人一般が今なお悩まされているところの、日本が大英帝国瓦解をもたらしたというトラウマ(コラム#1250)がしからしめたものである、と私は考えています。

(完)

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