太田述正コラム#2098(2007.10.1)
<朝鮮戦争をめぐって(その5)>(2008.4.10公開)

 このシリーズは、朝鮮戦争についてのシリーズなので、東アジア25年戦争全体をきちんと取り上げるのは別の機会に譲ることとし、ここでは朝鮮戦争以前については、スケッチ風に触れるにとどめたいと思います。
 
 トルーマン大統領によって解任された後、マッカーサーが1951年5月に米上院で、「これらの原料の供給を断ち切られたら、1,000万人から1,200万人の失業者が発生するであろうことを彼ら(日本政府・軍部)は恐れていました。したがつて彼らが戦争に飛び込んでいつた動機は、基本的に安全保障上の必要に迫られてのことだったのです(They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan. Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.)」と証言したのは、米国による日本への経済制裁が日本を対米(等)自衛戦争に追い込んだ、と指摘したものであると受け止められています(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC
。10月1日アクセス)。

 しかし、もし日華事変が日本による支那の侵略戦争であったとすれば、侵略されていた支那(国民党政権)を軍事援助や対日経済制裁等によって支援した米国の行為は正当な行為であり、このような正当な行為を行っていた米国に対して日本が自衛権を発動する・・安全保障上の必要によって開戦する・・ことは許されないはずです。
 となれば、この時点でマッカーサーは、日米戦争(太平洋戦争)だけでなく、日華事変も日本の自衛戦争であったと思っていたに違いない、ということになります。
 どうして日華事変は日本の自衛戦争なのでしょうか?
 あえて忖度すれば、戦前の日本の安全保障の基本であった対ソ連抑止戦略を背後から掘り崩そうとした支那の国民党容共ファシスト政権・・及び国民党と合作・離反を繰り返しつつ、最終的には合作した(ソ連の別働隊たる)中国共産党・・と戦ったのだから、これは日本にとっては自衛戦争である、という理屈です。
 1948年11月中に判決が逐次言い渡された極東裁判では、日華事変以降の日本の戦争は、共同謀議に基づく侵略戦争であったとしており、当然これはマッカーサーの認識でもあったはずなのに、この彼の認識を180度変えさせたものこそ朝鮮戦争であった、と私は考えているのです。

 (補注)米最高裁判事のスティーブンス(John Paul Stevens。1920年〜。最高裁判事:1975年〜)は本来保守派の判事なのに、右傾化を強める米最高裁において、あたかもリベラルの旗手のように右派に対する防波堤的な役割を果たしてきた、米最高裁の良心とも言える存在であるところ、彼に日米戦争は大きな影響を及ぼした。シカゴ大学を卒業後、彼は米海軍に入り、日本海軍の暗号を破ることに成功し、勲章をもらうことになるのだが、そのため、1943年4月、山本五十六連合艦隊司令長官は乗機を米軍機によって待ち伏せ攻撃されて命を落とした。スティーブンスは、高度の知性を持ち、かつて米国に在住し、米国の将校達と友人になった人物が、ほとんど議論されることも人道的考慮が払われることもないまま撃墜されたことに心を痛めた。戦争では一個の人間が単に殺されるべき敵に堕してしまうというわけだ。これを契機にスティーブンスは死刑廃止論者になる。(
http://select.nytimes.com/preview/2007/09/23/magazine/1154689944149.html?adxnnl=0&adxnnlx=1190262635-hjsH9hcx+lPey/oToqffhQ&pagewanted=print
。9月23日アクセス)
     マクナマラ(コラム#122、123)といい、スティーブンスといい、先の大戦期を経験した米国人の中に、このように人種的偏見から自由に、虚心坦懐に物事を見ることのできたエリート達が、わずかではあってもいたことを忘れないようにしよう。

 最後に、どうして私が中国国民党(Kuomintang =Nationalist Party)を容共ファシスト呼ばわりしているのか、そしてどうして中国国民党政権との戦争が日本の自衛戦争であったかを簡単にご説明しておきましょう。
 そのためには、孫文(Sun Yat-sen。1866〜1925年)の時代まで一旦時計を巻き戻す必要があります。
 1912年に国民党という自由民主主義政党が支那で結党され、孫文が党首になるのですが、彼は名目的な党首でしかなく、実権はナンバー3の自由民主主義者、宋教仁(Song Jiaoren。1882〜1913年)(コラム#234)が握っていました。

(続く)