太田述正コラム#2367(2008.2.15)
<オーストラリアの原罪(その2)>(2008.3.27公開)

 1934年、英国の保健省(Department of Health)は、「魯鈍者(feeble-minded)・・25万人の精神的欠陥者(mental defectives)とそれよりはるかに多数の精神的非通常者(mentally subnormal)」の強制的断種を勧告する報告書を出しました。
 労働党の議員達が労働者階級の人々が犠牲になることを懼れて反対したため、結局この勧告は実施に移されることはありませんでしたが、当時の英国の雰囲気が分かろうというものです。

 (2)ネヴィルの吸収政策 

 フェビアン流社会主義者達の影響を受けてオーストラリアで吸収政策を推進したのはネヴィル(Auber Octavius Neville。1875〜1954年)です。
 イギリスに生まれたネヴィルは、子供の時にオーストラリアのビクトリア(州)に移住し、1897年に西オーストリア(州)に移り、官僚になり、どんどん昇進します。
 1915年に同州の原住民保護長官(Chief Protector of Aborigines)となったネヴィルは、1936年には原住民問題コミッショナー(Commissioner for Native Affairs)となり、1940年に退官します。
 オーストラリアの原住民は、1788年に英国人が初めてオーストラリアにやってきた時には約30万人いたのに、1921年までには6万人まで減少していました。
  彼の推進した吸収政策は、原住民地区の主として女の子を連れだし、しばしば異種族間結婚(miscegenation)(や強姦)を伴いつつ白人の家庭で奉公をさせることによって、原住民性を失い、肌の色も褪せた人々を創り出すことを意図したものでした。
 こうすることによって、オーストラリアにかつて原住民がいたという痕跡を拭い去ることができる、というわけです。
 この政策は我々から見れば唾棄すべきものですが、ネヴィルにしてみれば、これはフェビアン流社会主義の進歩的な考え方の実践であり、原住民地区に追いやられたことによる貧困とオーストラリアの白人大衆達による原住民へのむき出しの暴力を伴う迫害から原住民を守るためのものでもあったのであり、ほとんど政治的支援も得られず、碌にカネも与えられなかったにもかかわらず、ネヴィルはこの政策の遂行に尽力を続けるのです。

 (以上、
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2008/feb/14/australia
http://www.hinduonnet.com/2001/09/16/stories/13160611.htm
(どちらも前掲)、及び
http://en.wikipedia.org/wiki/A._O._Neville
(2月14日アクセス)による。)

3 終わりに

 英国よりも遅れて黒人奴隷貿易を止め、英国よりも大幅に遅れて形式的な奴隷制廃止を行い、つい最近になってようやく黒人差別意識を克服しつつあるように見える米国と、英国ではついに実践に移されることのなかった優生学理論を20世紀前半から中期にかけて実践に移したオーストラリアは、私に言わせれば、どちらもできそこないの(bastard)アングロサクソンなのです。
 先の大戦で日本にとって最大の敵は米国でしたが、この米国に優るとも劣らない憎しみの念をもって日本と戦い、戦後の極東裁判で、マッカーサー占領軍司令官や米国が送り込んだキーナン検事よりも日本に対して厳しい立場で訴訟指揮を行ったのが、オーストラリアが送り込んだオーストラリア最高裁判事のウェッブ(William Flood Webb。1887〜1972年)裁判長でした(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%96
。2月15日アクセス)。
 そのオーストラリアが、米国同様、先の大戦時まで、文字通りの有色人種差別国であったことをわれわれ日本人は決して忘れるべきではありません。
 すなわち「太平洋」戦争は、この限りにおいて、正義と進歩を代表する日本と悪徳と反動を代表する米豪の戦いであったということを・・。
 そんなオーストラリアが、現在、日本の調査捕鯨に対して国を挙げて反対運動を行っています。
 白豪主義の「放棄」にもかかわらず、そしてラッド首相が行ったオーストラリア原住民への謝罪にもかかわらず、オーストラリアはいまだにアングロサクソンを頂点に置く人種差別意識を克服できていない、と言わても仕方ないでしょう。

(完)