太田述正コラム#2045(2007.9.5)
<韓国のナショナリズムの謎(その3)>(2008.3.10公開)

 少し先を急ぎすぎました。
 このあたりで議論を整理しておきましょう。

 「日本の統治下で、朝鮮半島は驚くべき経済成長を成し遂げ、法的・制度的にも近代化が進んだ」こと、つまりは文明開化が進んだことについて、コラム#265で次のように記したところです。

 日本は、1910年に韓国を併合すると、近代的な統治機構を整備するとともに、土地調査事業に着手して近代的な土地所有権制度を確立するとともに、近代的な法体系を整備し、保険衛生施設や学校等の民生インフラ、及び灌漑施設や鉄道等の産業インフラを鋭意整備した。
 また、朝鮮人で6年以上の教育を受けた人の割合は、併合当時は2.5%に過ぎなかったが、1930年代に生まれた人々では78%にも達した。
 これらの施策を実施するために日本政府が朝鮮半島に投入した補助金は、多い年には日本の国家予算の20%に達し、35年間の日本の対朝鮮半島財政収支の累計はついに黒字にはならなかった。
 その結果、併合当時約1300万だった半島人口は終戦時には約2900万(朝鮮半島2500万、日本内地200万、満洲・華北200万)と35年で二倍以上に増えた。これは衛生状態の改善による出生率の向上と死亡率の低下、及び農業生産性の向上のおかげだ。(一町歩当たりの米の収穫量をみると、併合当時は7.69石であったものが、1933年には10.72石へと約四割増えている。)

 当然、朝鮮人もまた、この文明開化の恩恵に浴しました。
 コラム#265で、朝鮮総督府が設立した朝鮮殖産銀行からの融資等のおかげで、日本統治下でも一定部分の資本は朝鮮人が所有し、当時の商人や地主から現在の韓国を代表する財閥の創業者が出たのであって、韓国の産業発展のルーツは、日本による朝鮮半島統治時代に見いだされる、と記したところです。

 では、朝鮮人に対する差別はあったのでしょうか。

 1923年の関東大震災の時の朝鮮人虐殺という不幸な出来事を見ても、日本人の間に朝鮮人差別意識があったことは事実ですが、制度上、基本的に差別はありませんでした(注8)。

 (注8)初期においては、朝鮮人は労働生産性も、従って賃金も日本人に比べてはるかに低かった。このため朝鮮人は、1939年までは日本本土へ自由に転入することが認められていなかった。
    他方、米を含め、朝鮮半島産品の日本本土への移出は自由だった。1925年から31年にかけての不況期に、日本本土の米の価格が三分の一に暴落した時には、さすがに朝鮮半島産の米の移入禁止の動きがあったが結局禁止されることはなかった。同じ不況期に米国が、砂糖やパーム油のフィリピンから米本土への移出を禁止し、その上フィリピンを捨て去る(10年後に独立させる)という決定を下したことと比較しよう。

 帝国陸軍で中将にまで昇進した洪思翊(Hong Sayang)の話は有名です。
 また、日本本土在住の朝鮮人(男性)は無条件で国政、地方を問わず選挙権が与えられていました。
 朝鮮半島在住者は、日本人も朝鮮人も選挙権を与えられていませんでしたが、いずれにせよ、この点で日本人と朝鮮人は全く差別はされていませんでした。
 それどころか、1930年以降、選挙ではハングルで投票することすら認められていました。
 朝鮮人の朴春琴(Park Sungkong)は、1932年から42年までに実施された4回の衆議院議員選挙に東京4区から立候補し、うち32年と37年の2回当選しています。
 なお、1945年には選挙法が改正され、朝鮮半島から18名の衆議院議員が選ばれることになったのですが、日本の敗戦により、実現しませんでした。
 ちなみに、貴族院議員に勅任された朝鮮人としては、1932年の朴泳孝(Park Yong Hyo)侯爵ほか1名がいます。
 (以上、
http://www5b.biglobe.ne.jp/~korea-su/korea-su/e.korea/korea-problem/japan%20ruied.html
(9月3日アクセス)、及び
http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainanajuuichidai
http://www.geocities.jp/nakanolib/giten/kizoku.htm
(どちらも9月5日アクセス)による。)

 時間が経つにつれて、朝鮮人の日本帝国臣民意識はどんどん高まって行きました。

 1937年の段階で朝鮮半島の統治機構の職員の40%は朝鮮人が占めるに至ったところ、希望者が殺到し、例えば警官の求職倍率は20倍にも達しました(コラム#265)。
 また、朝鮮人は終戦の直前まで徴兵を免除されていたのですが、1937年に日華事変が始まると、朝鮮人の戦意も昂揚し、1938年に陸軍が志願兵を募ったところ、400人の枠に3,000人以上が応募しました。応募者は年々増加し、1942年には競争率が62倍となり、1943年には実に、朝鮮半島の18歳から22歳の朝鮮人男性人口の半分以上にのぼる30万人の応募があったのです。(当時の半島の朝鮮人人口は2,400万人。)(biglobe上掲)

(続く)