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太田述正コラム#2024(2007.8.26)
<敗戦後のドイツ人の受難>(2008.2.26公開)

1 始めに

 先の大戦敗戦後のドイツ人の受難は、日本人の受難の比ではありませんでした。
 しかし、この事実を直視することを、旧連合国は、ナチスのレベルに自分達を貶めることを意味したがゆえに、また、ドイツは、ナチスの犯した戦争犯罪をの汚名を拭い去ろうとしていると非難を受けかねないがゆえに、避けてきました。
 英国人の歴史家マクドノー(Giles MacDonogh)は、初めてこの事実の全貌を'AFTER THE REICH−−The Brutal History of the Allied Occupation'で明らかにしました。
 この本にいかなることが書かれているか、ご紹介しましょう。

 (以下、
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/08/23/AR2007082301769_pf.html
http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/books/history/article1612102.ece
http://seattletimes.nwsource.com/cgi-bin/PrintStory.pl?document_id=2003838198&zsection_id=2003680485&slug=afterreich19&date=20070817
http://www.boston.com/ae/books/articles/2007/08/12/a_hellish_peace?mode=PF
http://www.telegraph.co.uk/arts/main.jhtml?xml=/arts/2007/04/15/bomac14.xml
(いずれも8月26日アクセス)による。)

2 ドイツ人の受難

 先の大戦中にドイツの非軍人180万人が命を落としている。(ちなみに、ソ連では戦時中の2,600万人の不慮の死の半分は非軍人だし、ポーランドの600万人の不慮の死の半分はユダヤ人だ。)

 しかし、1945年6月にドイツが降伏してからのドイツ人の受難はこれを上回るものだった。
 
 まず、ドイツの軍人だが、捕虜になった者のうち、約100万人が復員を果たせず亡くなっている。

 その大部分はソ連のせいだ。
 例えば、スターリングラードで捕虜になった9万人のうち、復員できたのは5,000人だけだ。ソ連に抑留されたドイツ兵の捕虜の一部は1979年まで解放されなかった。

 英米だって誉められたものではない。
 英米両軍の捕虜になった旧ドイツ兵800万人中、数千人がライン川に沿って設けられた鳥かごのような捕虜収容所で、風雨に晒され、食糧も十分に与えられなかったために死んだ。
 また、多くの捕虜がいくつかの連合国内で長期にわたって強制労働に従事させられた。 
 次に非軍人だ。
 1948年の西独政府樹立までの3年間に、老人、女性、そして子供を中心に約300万人のドイツ人が疾病・寒さ・飢え・自殺、そして虐殺によって命を落とした。

 ソ連が占領した地域のドイツ人の女性はほぼ全員がソ連兵によって強姦された。そして強姦による妊娠の中絶を自分で試みた無数のドイツ人女性が死亡した。ソ連兵は、腕時計程度を掠奪するにあたって平気でその持ち主を殺したものだ。
 また、ドイツ人の非軍人が大量にソ連に送られ、強制労働に従事させられたが、その大部分は1950年代の半ばまで帰国できなかった。

 1945年5月12日には、早くもチェコの指導者がドイツ人追放の意思を表明し、6月19日にはドイツ人追放令が発せられた。これを受け、ズデーデン地方のドイツ人約25万人がチェコ人によって虐殺され、残りはドイツ領内に追放された。
 同様のことが、ポーランドや、シレジア・ポメラニア・東プロイセンの旧ドイツ領でも起こった。
 こうして、約200万人のドイツ人が虐殺され、約1,000万人が命からがらソ連や英米仏のドイツ占領地区に逃げ延びた。
 このどさくさに、ポーランドでは、ホロコーストを生き延びた、最大2,000人のユダヤ人がポーランド人によって虐殺されている。

 英米はこれらの蛮行を止めようとするどころか、ローズベルト時代からの米財務長官のモーゲンソー(Henry Morgenthau)は、復讐のために、ドイツを巨大な農場にすることを提唱し、ドイツ人を餓死させ、断種し、残りを爆撃で廃墟となったドイツの諸都市へ追放することを計画した。トルーマン大統領が中止させなければ、あわやこの計画が実施されるところだったのだ。
 それでも、ユダヤ人用の強制収容所跡は、ドイツ人の収容者で一杯にされた。

 フランス兵だって、シュトッツガルトで3,000人の女性と8人の男性を強姦した。

 一番マシな占領者は英国だった。
 ある英空軍の将官がドイツの美術品を掠奪したり、MI5の尋問官が拷問施設を作ったりした程度であり、英兵は、性欲の処理を、最初から一貫して強姦でなく、タバコやナイロンの靴下で女性を買う形で行うという品行方正ぶりだった。
 捕虜収容所における旧ドイツ兵の死亡率も、英占領地区の方が米占領地区よりはるかに低かった。

 英米仏のドイツ占領地域で状況が改善されたのは、スターリン主義への恐怖が西欧で高まったことと、ソ連兵によるドイツ人に対する強姦・誘拐・虐殺・掠奪の余りのひどさに対する嫌悪感が、東西冷戦を引き起こしたからだ。
 米軍のパットン(George Patton)将軍は、ホロコーストを知ってドイツ人に対する憎しみを隠そうともしなかった(注)が、その将軍でさえ、ソ連に対する先制攻撃を主張したくらいだ。

 (注)その割には、英米仏のナチス追及は微温的だった。1948年5月までにこの3国の法廷はナチス関係者に対し8,000件の裁判を行い、806人に死刑を宣告し、486人の死刑を執行しただけだ。だから多くのナチス関係者が海外に逃亡できた。しかも米国は、ナチス関係者の多くを米国に連れて行き、情報を引き出したり研究に従事させたりした。

 この結果、西独を再建することと、1948年のソ連によるベルリン封鎖に空輸で対抗することが喫緊の課題となり、もともと微温的であったところの、ナチスの犯罪を暴き裁くことは、完全に忘れ去られるに至った。

3 終わりに

 満州の日本軍民は大戦末期から戦後にかけてソ連にひどい目に遭ったけれど、ドイツ人がソ連を始めとする連合軍諸国によって被った、ジェノサイドと言ってもよいほどの災難に比べればものの数ではありませんね。
 これは、先の大戦時の日本が、ナチスドイツと比べようもないほどまともな国であり、だからこそ、ドイツのように戦争相手国の人々の憎しみをかっていなかったからです。

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