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太田述正コラム#2327(2008.1.28)
<皆さんとディスカッション(続x49)>

<dosanko>

縄文人は弥生人と数百年(最長の予想では800年ほどだったか)にわたって共存しており、弥生人同士は武力衝突がしばしばあったものの、縄文人と戦争した痕跡はみつかっていません。
 また縄文人は、非常に性能の高い合成弓の罠を使った狩猟をしています。
 (すべて国立科学博物館の特別展示による)。
 もちろん、これは対人用にも有効に機能します。
 縄文人の末裔たるアイヌ人が、実に2千年以上にわたって見事な撤退戦を闘い続けたことからもわかるように、狩猟採集を行う縄文人の山岳ゲリラ戦能力は高いものだったと考えられます。
 だからこそ、同族同士では殺しあう野蛮な弥生人も、縄文人が住む山岳地帯には進入できなかったのだと思います。
 「軍事を放擲していた縄文人が武力抵抗を行わなかった」
 というのは誤認ではないでしょうか?

<太田>

 私は、あなたが「弥生人<が>・・縄文人と戦争した痕跡はみつかっていません」とおっしゃっているところの、弥生人渡来期を念頭に置いて、「軍事を放擲していた縄文人が武力抵抗を行わなかった」と言っているのです。
 恐らく縄文人は、弥生人と共棲して弥生人の支配を受け入れるか、逃散したものと考えられます。
 歴史が下って大和朝廷が成立した後、縄文人が逃散した僻地(失礼!)にまで、弥生人(貴族/武士)が侵入してきた時は、東北地方の蝦夷の例を見ても分かるように、武力抵抗が行われたわけですが、これは別の話です。

<わ>

 軍事を放棄したのは平安の朝廷も同じです。武士に外注したんですね。今は米国に外注しています。
このように争いがあって、勝っても負けても、極端におとなしくなる方向に圧力がかかるんですね。
 ところで朝廷は出雲に大きな社を建設することや征服した異民族の美談を語らせることを許しました。判官びいきという言葉もあります。大陸では基本的に有り得ないことです。靖国の戦犯への大陸側の態度と我々の感情が異なるのもこの為でしょう。
そして同時に勝者の「優しさ」への妙な信頼感がある。それが米国へのあらゆる丸投げだと思います。
 しかし、こうした「優しさ」は実は恨みへの警戒の発露なので、朝鮮を征服したのちは、アイヌ民族を征服したときのように、寛容に受け入れたものの、何かあった場合に敗者への警戒心が出てしまう。それが関東大震災の虐殺であり、今の移民受け入れ拒否だと思います。負けたのは米国に対してであって、半島や大陸に対しては一貫して勝者という感覚でいますから。
 そして、裏返しとして敗者になった場合、勝者の「優しさ」への妙な信頼感もある。それがあらゆる面での米国への丸投げに表れているのではないでしょうか。

<太田>

 その通り!
 日本列島に渡来した弥生人もまた、北米大陸に渡来したアングロサクソン等と違って、原住民を根絶やしにするどころか、原住民たる縄文人(中逃散しなかった部分)と結構うまく共棲したわけで、この記憶もまた、縄文人の末裔達に受け継がれていったと考えられます。
 なお、

>軍事を放棄したのは平安の朝廷も同じです。

は、私の言う、日本の縄文モードへの回帰の一回目なのです。
 (私の縄文モード・弥生モード論については、コラム#276のほか、116、154、159、226、358、475、629、631、807、826、827、829、1057等を参照してください。 また、武士論(コラム#614)や東北地方論(コラム#52)もどうぞ。)
 ただ、蛇足ながら、

>武士に外注したんですね。

は必ずしも正しい捉え方ではありません。
 貴族と武士は一体のものであるととらえるのが、最近の日本史学界の有力説になりつつある(コラム#2200(未公開))と承知しています。
 武士の棟梁がどうして貴種(=天皇家の子孫)でなければならなかったか、またどうして征夷大将軍(=征縄文人最高司令官)に任ぜられたか、に着目してください。

<ueyama>

 関東大震災における朝鮮人虐殺についてですが、これについて(ネット上の情報を)検討したページがあります。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20020901

私が確認した印象では、冷静に検討されていると思います。

 さて、このページの結論部分は
 「関東大震災では朝鮮人が、日本人の自警団により300名以上虐殺された。また警察・軍隊などによりその数倍にも及ぶ犠牲者が出たという目撃者の証言などもある」
というものですが、これを

 「1923年の関東大震災の際の在日朝鮮人虐殺は、この感情(<被支配民へと転落した縄文人はこの時の屈辱と怒りを深く胸に秘めて2000数百年を生きてきた>)の噴出である、ととらえるわけです。」(コラム#2325)

というのは、いささか飛躍があるような気がしてなりません。
 この種の話は「火事場泥棒」という言葉もあるとおり、混乱期に起こる想定の範囲内のものであり、阪神淡路大震災時にも、強姦・略奪等が行われたことは記憶に新しいと思います(殺人まであったという話は聞いたことがありませんが、(中学生時ながらも現場を知っているものとして)私はおそらくあっただろうと思っています)(強姦・レイプに関する典拠は示せませんが、地元では報道されていました)。

 そして、「幕末までの日本の支配層(貴族・武士)は基本的に弥生人の末裔」であるならば、明治以降もほとんどの政治家は「貴族・武士」の子孫なのではないでしょうか?(http://www.yorozubp.com/0006/000612.htm 
もちろん、太田さんはより詳しくその状況を把握されていると思います。) 
 日本人の移民拒否感情が最近多く聞かれるのは、経済的に不利な境遇にいる人たちが、在日韓国・朝鮮人の方に対する優遇政策を簡単に(誤解を含みつつ)知ることができるようになり、移民を肯定すればそのような(不当に自分たちより優遇される)人間を増やすだけじゃないのか、という不安からわき起こっているのだと感じます。

 (そういう意味では、「・・特別永住者という特例を無くせば自然と帰化するようになって在日韓国・朝鮮人の問題は相当程度解決<するのではないか?」(遠江人さん・コラム#2325)というのは、ほとんど正解に近いのではないかと思います。ただ、実際問題「特別永住者という特例を無く<す>」のは難しいだろうと思いますけど。)

 少なくとも私は「貴族・武士」の子孫ではない、元被支配者階級であるところの縄文人の末裔であると思いますが、移民拒否感情はありません。長くなりましたが、日本の移民拒否感情が縄文人のルサンチマンによるのだ、というのはいまいち納得できないところです。

<太田>

>この種の話は「火事場泥棒」という言葉もあるとおり、混乱期に起こる想定の範囲内のもの

 だけど、「火事場殺人」という言葉がない以上、関東大震災時の朝鮮人虐殺は「混乱期に起こる想定の範囲内のもの」とは言えないのではないでしょうか。
 そもそも、「阪神淡路大震災時に・・強姦・略奪等が行われた」ことはありうるとしても、それが極めて少なかったからでしょう、ほとんど報道されなかったことも事実であり、そのことが国際的に称賛されたことを記憶しています(典拠失念)。
 なおさら、関東大震災の際の出来事の異常さが際だってくるというものです。

 なお、

>明治以降もほとんどの政治家は「貴族・武士」の子孫なのではないでしょうか?

はデータがないので、お答えするのは困難ですが、仮にご指摘のように、世襲議員=貴族・武士の子孫、と措定したとしても、世襲議員の衆参両議院総数に占める割合は30%超、自民党議員の衆参両議院自民党議員総数に占める割合でも40%弱であり(
http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-pedigree22jan22,1,3669275,print.story?coll=la-headlines-world
。1月23日アクセス)、これは余りにも多すぎることは確かではあるものの、非世襲議員が多数を占めていることもまた押さえておく必要があるでしょう。
 いずれにせよ、民主主義の下では、政治家は圧倒的多数であるところの縄文人の末裔達の意向・・それがいかに非合理的なものであろうと・・に逆らった政策を打ち出すことは容易ではないでしょうね。

<遠江人>

 よく保守系の知識人などに見受けられることですが、移民の受け入れというと、それが日本の国益になるのかどうかのみでしか物事を考えられない人が本当に多いと思います。
 しかし欧米の先進国は何も自国の労働力を補うためだけに移民の受け入れをしているわけではないと思うのです。経済先進国が貧しい国からの移民を受け入れるのは富める国に課された義務ではないでしょうか。

太田述正コラム#1574(2006.12.18)
<米国慈善事情(その1)>
http://blog.ohtan.net/archives/50954259.html
太田述正コラム#1575(2006.12.18)
<米国慈善事情(その2)>
http://blog.ohtan.net/archives/50954258.html
太田述正コラム#1576(2006.12.19)
<米国慈善事情(その3)>
http://blog.ohtan.net/archives/50954257.html
太田述正コラム#1577(2006.12.19)
<米国慈善事情(特別篇)>
http://blog.ohtan.net/archives/50954256.html
太田述正コラム#1581(2006.12.21)
<米国慈善事情(その4)>
http://blog.ohtan.net/archives/50954252.html

 みなさん、この5編をぜひ読んでください。
 以下はその中からの抜粋です。

 「換言すれば、その靴代で発展途上国の子供一人の命を救えるのだとすれば、あなたはその代金相当額を寄付すべきなのだ。
 しかも、溺れている子供の場合とちがって、この場合、子供が苦境に陥ったことについて、われわれに全く責任がないとは言い切れないのだ。
 コロンビア大学の哲学者であるポッグ(Thomas Pogge)は、われわれの豊かさのいくばくかは発展途上国の貧者の犠牲の上に築かれたものだ、と指摘している。
 欧州諸国や米国は自国の農産品に補助金を出したり、農産品輸入に高関税を課したりして発展途上国の農産品に対し障壁を設けていることはみんな知っている。
 しかし、それだけではない、とポッグは言う。
 例えば、国際企業は、石油・鉱物・木材といった天然資源をどんな政府からでも買おうとする。
 この利権に目が眩み、発展途上国では、叛乱勢力が次々に現れては政府を倒して利権を奪取しようとする。
 だから、たとえてみれば、国際企業は、盗品を買っているようなものなのだ。
 贓物故買者との違いは、天然資源を買う国際企業は、国際的な法的・政治的スキームによって、買った天然資源の法的に正当な所有者であると認められている
点だ。
 このことは、われわれにとってはまことに有り難いことなのだが、天然資源産出国にとってはたまったものではない。当該国の人々は、ほんのちょっと利益は得るものの、相次ぐクーデターや内戦と腐敗にずっと苦しめられるのだから・・。
 すなわち、われわれの発展途上国の貧者への寄付は、見知らぬ人への支援なのではなく、われわれが原因をつくり、現在も原因をつくり続けている損害の補償なのだ。」

 以上は慈善事業についての話で移民受け入れのことを言っているわけではありませんが、先進国と発展途上国の関係のことで言えば、基本的なテーマは共通しています。
 先進国にとって移民の受け入れは、受け入れ側が損をしてもしなければいけないことの一つだと思います。このことは世界の国々からしたら常識以前の話ではないでしょうか。 そのことも分からないほど日本の知識人は劣化していると思います。

<太田>

 いつもながら、私の考えを見事に代弁していただき、ありがとうございます。

<コバ>

 縄文人の怒り(秘めたるものとはいえ)にもかかわらず、今なお天皇家が存在しているのはすごいことですね。天皇家の努力や、縄文人が縄文人であるおかげなのか・・。
 しかし、新たに日本を占領し続けている米国に対して日本人はどんな思いを秘めているのか。何千年も怒りを抱き続けないことを願うばかりです。

<やいち>(ほんの少し文章に手を入れさせていただきました。(太田))

 バックナンバー楽しく読ませていただいております。
 防衛省の金銭腐敗より、守屋氏が、次官になり、太田氏が辞めざるを得ない情況のほうが問題に思えてきました。政治家は、時に任命権を振りかざしながら、事件発生後は、官僚のせいにします。石破防衛大臣は、任命責権を認めておりますが、結果責任としての任命責任しか感じてないから、他人事のようでした。政治家は、結果責任のことばかり言って当事者ではない様な物言いです。石破防衛大臣は、顕著です。
 初めと終わりのあたりを中心に読んでおる情況です。現時点で頭に浮かんだことを書きます。
 吉田ドクトリンの、ポチ化戦略により、川の流れに身を任せて何も考えないポチと化した日本および日本人を立て直すため、憲法解釈変更により集団的自衛権行使を可能にし、未来を意思と力と戦略で切り開くアングロサクソン英米との、双方向関係を可能にし、世界の中に入っていくことを目指しておられると感じました。この場合、国連中心主義は×であると。

 石破防衛大臣は、地方紙コラムにて、新進党を出たのは、最終的に小沢氏の国連中心主義についていけなかったからだと書いておりました。自民党の中には、憲法解釈がもっとずれている人が居るのに、よく書くなーと思いました。国連の意見と、国益がぶつかったらどうするんだと、それが心配だと書いておりました。どんな立場をとったって、起こることであって、それはその場で判断するしかないことであり、万全はない中で選ぶ話であるのに、他の選択肢を示すわけでもありませんでした。
 数日前、朝のNHKのラジオニュースで、テロ特により、給油に出かけた艦船が、給油すべきかどうか判断に困る場合は、石破防衛大臣が判断することとなったと放送しておりました。
 何かが、狂ってる。石破防衛大臣の頭だと思います。

 一方、太田氏による評判が最低の小沢氏ですが、出版当時小沢氏の『日本改造計画』を読んで、自己責任について書いてある内容が新鮮でした。
 考えるのがうまくいかない人には、責任を問えないですから、自己責任を取れるように国民が変わることを呼びかけていました。
 国の自己責任で、世界の役割分担をするとき、現在の情況で憲法改正は、困難であり、解釈するとき、日本では国連と言うもののイメージが大変いいので、国連中心でいくという方向で、解釈して集団的自衛権に踏み込むのは現実的だと思いますので、賛成です。
 この本は、ソ連が崩壊して東西冷戦が終わり、2〜3年後に出てきたと記憶していますが、本当に時代が変わったことが、分かった政治家の一人だと今では好意的に見ています。当時は、分かりませんでしたが・・。
 <ただし、>金竹小の一人ですから、最も進んだ金銭腐敗が当然あると思います。

 なお、回りの戦争体験者に聞いても、だんだん戦意が高揚し戦争になったという感じで、戦争でさえ時代のここからというのはなかなかつかみにくいもんだと思います。

<太田>

>現在の情況で憲法改正は、困難であり、解釈するとき、日本では国連と言うもののイメージが大変いいので、国連中心でいくという方向で、解釈して集団的自衛権に踏み込むのは現実的だと思いますので、賛成です。

 文脈から言ってこれは、小沢氏の主張のことをおっしゃっておられるのでしょうが、小沢氏は、政府憲法解釈を変更して、国連の集団的安全保障の枠組みの下なら(=国連安保理決議さえあれば)、日本がその軍事力を海外に派遣してもこの軍事力は日本国憲法の規制は受けないこととすべきだと主張しているのに対し、私は政府憲法解釈を変更して、集団的自衛権の行使ができるようにすべきだと主張しているのであり、この二つの主張は全く異なります。
 なお、国連中心主義とは、中共やロシアに日本の対外政策の基本を委ねるということに他ならないのであって、私は反対です。
 だからと言って、私は国連の存在意義を否定するつもりは全くありません。この点は誤解のないようにお願いしておきます。

<やいち>

 最近のCIAの話題でひとつ質問があります。
 防衛省には、失敗事例集というようなものはあったでしょうか。
 CIAには、未来の人の教訓となるように、このような、文書があるのだと思います。
 成功は、真似るしかないですが、失敗は、学べます。ただ、まねる→まねぶ→まなぶと変化しただけと書いている人がいました。私の仕事の経験でいけば、失敗のほうが原因が分かりやすいです。

<太田>

 CIAにだって失敗事例集なんてないと思いますよ。
 私のCIAに関するシリーズ(コラム#1875、1876、1878、1880)は、情報公開制度と関係者へのインタビューを踏まえて執筆された、CIAについての浩瀚な本をタネ本にしているのです。

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