太田述正コラム#1882(2007.7.28)
<イスラム帝国はいかに形成されたか>(2008.1.25公開)

1 始めに

 イスラム帝国がいかに形成されたかに関するスコットランド人でセント・アンドリュース大学教授のヒュー・ケネディ(Hugh Kennedy)の新著、The Great Arab Conquests: How the Spread of Islam Changed the World We Live In, Weidenfeld & Nicolson が出た(注1)ので、その中身の概要をご紹介しましょう。

 (注1)このテーマを初めて追求した欧米人による本は、同じくスコットランド人のムアー卿(Sir William Muir)の1883年と1891年の本だった。彼はインドのアグラに1850年代に情報将校として滞在しており、セポイの反乱に衝撃を受けて、この2冊の本を上梓した。

 なお、この本のタイトルと中身が一致していないことに注意が必要です。

2 ケネディの指摘

 預言者ムハンマドが632年にメディナで亡くなった時点ではアラビア語はアラビア半島の言語に過ぎなかったが、このアラビア語を話す少数のアラブ人達のイスラム教の旗を掲げた聖戦(jihad)なる征服活動によって、750年までには西はイベリア半島、東はインド亜大陸西南端のシンド(Sindh)、北はオクソス(Oxus。現在のウズベキスタンとタジキスタン)一帯にかけての広大な地域の公用語になった。そして、その後、11世紀にはインド亜大陸全体にイスラム教が広まり、15世紀までにイベリア半島を失ったものの、750年までに征服した地域は基本的に現在もなおイスラム教地域であり続けている。

 一体かくも短時間でかくも広大な地域をどうして征服できたのだろうか?
 タイミングがよかったことは事実だ。
 ビザンツ帝国とササン朝ペルシャ帝国が角突き合わせ(注2)て疲弊し、両帝国とも帝国内が乱れていた時期だったし、キリスト教勢力は東西間の宗派分裂(schism)に苦しんでいた。その上、ペルシャの貴族的社会はイスラム教の平等主義の前には脆弱だった。だから、アラブ人は大きな抵抗を受けなかったのだ(注3)。

 (注2)両者の間の622年のアナトリア半島でのイッソス(Issus)の戦いは有名。この時はビザンツ帝国の皇帝ヘラクリウス(Heraclius)が勝利した。
 (注3)ただし、イスラム勢力は、中央アジアのトルコ系の人々の熾烈な抵抗に遭ったし、北アフリカのベルベル人を征服したものの、過酷な奴隷貿易を行ったため、741年に大叛乱に直面する。

 聖戦とはいかなるものだったのか?
 アラブ人達は、甲冑を身につけず盾も持たなかった。要は軍事技術的には戦った相手に比べて決して優れてはいなかった。

 その持ち味は、機動力、リーダーシップであり、とりわけ、高いやる気と士気だった。 もう少し説明すると、兵士達の大部分はベドウィン(Bedouin)であり、小さいときから馬に乗り、弓を射て育ち、長旅に慣れ野宿を厭わなかった。このベドウィンを率いたのが都会育ちのエリート達であり、彼らは貿易、旅、政治的交渉について経験を積んでおり、自己コントロールに長けていた。この都会と田舎の組み合わせが絶妙だった。
 聖戦軍の規模は小さく、兵力は6,000人から1万2,000人の間が普通で2万人を超えたことはなかった。だからこそ、彼らは高度に機動的たりえたのだ。

 やる気と士気の高さは、イスラム教信仰が、生き残った場合には戦利品(捕虜を奴隷にすることを含む)とその公平な分配を、そして戦死した場合には天国行きを約束していたことから来ていた。中には確実に天国に行けるように鎖帷子(かたびら)すら纏わずに戦場に赴く者までいた(注4)。ただし、自殺的攻撃をする風潮はなかった。

 (注4)7世紀の聖戦におけるアラブ人二大武将の一人であるイブン・ワリド(Khalid ibn Walid。592〜642年) は、633年にペルシャ人達に対し、「諸君が生を好むように死を好む人々が既に諸君の前に現れている」と宣言した。

 アラブ人としての矜持もまたやる気と士気の高さにつながった。
 矜持があったからこそ、彼らは、掠奪はしたけれど、強姦したり、女性や子供を殺したり、動植物を蹂躙することは控えた。

 そして、ペルシャのファルス(Fars)地方のイスタクル(Istakhr)のように住民が虐殺されることもあったが、それは例外的なことだった。
 ペルシャに送られたイスラム教徒の使節が「われわれの宗教を信じることを勧める。それがいやなら諸君は貢ぎ物を払わなけれならない。これは諸君にとって困ったことかもしれないがもう一つの選択肢ほど困ったことではない。貢ぎ物を払わないと言うのなら、それは戦争を意味するからだ。」と通告したように、ほとんどの場合、被征服者が税金さえ払い、敵を支援しなければ、イスラム教徒達は手出しはしなかった(注5)。

 (注5)アラブ人は、イラクにバスラ(Basra)とクーファ(Kufa)、エジプトにフスタート(Fustat。現在のカイロの近郊)という新しい都市を建設したが、それ以外のイラク地域やエジプト地域の行政に介入はしなかった。なお、これらの新都市に定着したアラブ人達は、部族ごとに分かれて聖戦を戦った時のまま、部族ごとに分かれて住んだ。部族への忠誠を優先し、部族間で競い合うアラブ人の傾向は、聖戦を通じて一層強まった。

 例えば、ダマスカスの、洗礼者ヨハネの墓がある聖ヨハネ教会をイスラム教徒はキリスト教徒と共同使用したし、偶像破壊はほとんどやらず、シンド地方を征服した時には仏教徒達が仏教寺院を修理するのを認めた。

 754年かその前にコルドバで編纂されたラテン語の年代記(Latin Chronicle of 754)は、アフリカからやってきた「侵略者」がイスラム教徒であることに全く言及していない。
 それもそのはずだ。
 イランの山岳地帯、北アフリカ同様、イベリア半島は、一人のアラブ人が訪れることなく、ただ単にアラブ人らのイスラム教徒が、地域の諸都市に、イスラム教の保護を受け容れるようにとの手紙を出しただけで「征服」されたのだから・・(注6)。

 (注6)フランク/ブルグンド軍を率いた宮宰シャルル・マルテル(Austrasian Mayor of the Palace Charles Martel)が勝利をおさめたところの、イスラム勢力の西欧への侵攻を食い止めた歴史的な会戦、ということになっている732年のツールまたはポワティエ(Tours or Poitiers)の戦いは、イスラム側から見ればドジッた戦利品狙いの威力偵察に過ぎなかった。

 われわれは、イスラム教徒による征服のスピードに驚くより、それが征服された人々に及ぼした言語的、文化的、宗教的影響が恒久的に持続した(注7)ことにこそ驚くべきだ。

 (注7)ただし、アラビア語は、イラク以東には定着しなかった。

 イスラム教への改宗は、人々が当時の支配的文化と自分達とを同一化し、この文化に参加したいと思う人がだんだん増えて行った結果として起こったのであって、緩慢、かつおおむね平和的に進行したのだ。

 (以上、
http://books.guardian.co.uk/reviews/history/0,,2131217,00.html  
(7月21日アクセス)、及び
http://www.economist.com/books/PrinterFriendly.cfm?story_id=9433846
http://www.newstatesman.com/200707120051
http://www.telegraph.co.uk/arts/main.jhtml?xml=/arts/2007/07/26/boken121.xml
(いずれも7月28日アクセス)による。)

3 終わりに

 現在のイスラム教徒の一部が、イスラム帝国形成期の本当の歴史を知らずして、当時の聖戦と違った聖戦を唱え、当時イスラム兵士が行わなかった自殺的攻撃を繰り返しているのは困ったものです。