太田述正コラム#1878(2007.7.24)
<CIAの実相(その3)>(2008.1.21公開)

 (3)CIAと米歴代政権との関係

 CIAは、その時々の米政権と良好な関係を保つことに腐心し、情勢分析をねじ曲げることを厭いませんでした。
 それでもCIAとその時々の米政権との関係には微妙なものがありました。
 ワイナーは次のように指摘しています。

 ジョンソン政権が欲しがっていたところのベトナムに係る好戦的議会決議を後押しするため、CIAはトンキン湾で北ベトナムの哨戒艇が米国の駆逐艦を魚雷で攻撃したとの1964年8月のいわゆるトンキン湾事件をでっち上げた。
 
 ニクソン大統領の辞任後、その後を襲ったフォード(Gerald Ford)大統領は、やがて1976年にブッシュ父(George H.W. Bush)をCIA長官にすえた。
 これは異例の人事だった。
 というのは、ブッシュは軍事ないし諜報の専門家ではなかったからだ。
 米下院議員を2期務めつつも、上院への挑戦に2度失敗し、ニクソン大統領の下で国連大使と共和党全国委員会の委員長を務めたため評判を落とし、更にフォード大統領によって駐北京連絡事務所長(実態は大使)に飛ばされたが、依然政治家としての捲土重来を期していた。
 そのブッシュは、CIA長官への指名を受ければ政治家としては完全に終わってしまうと思いつつも、主要政府機関からニクソン時代の澱を一掃するとのフォードの方針に協力することに意気を感じ、指名を受諾した、というところだろう。
 ブッシュは長官業を大いに楽しみ、物の見事にCIAを掌握し、何とCIAを彼の政治的基盤にすることに成功する。(ブッシュは、1981年にレーガン大統領の下で副大統領として政界への復帰を果たす。)
 とはいえ、ブッシュの下でCIAが本来の仕事の面で少しでもマシになったかと言えば、そんなことは全くなかった。
 
 クリントン大統領とCIAとの関係はひどいものだった。
 軍事管理・軍縮専門の行政官だったウールジー(R. James Woolsey)を人に言われるがままCIA長官に任命したのはよいが、その後2年間でクリントンはウールジーに2回しか会おうとしなかった。
 クリントンのCIA嫌いは徹底しており、1993年にCIA本部がパキスタン生まれの暴漢に銃撃されて死傷者が出た時に、CIA本部を訪問せず、代わりに妻を派遣したことでCIA職員達の憤激をかった。
 同じ年に、クウェートを訪問したブッシュ父前大統領をイラクのサダム・フセインが暗殺しようとした時、クリントンがイラクの諜報機関の本部を巡航ミサイルで攻撃するという報復措置しかとらなかった(注7)ことで、彼らの憤激は更に募った。

 (注7)ウールジー自身が、何ダースかの巡航ミサイルで真夜中にバグダッドのビルを攻撃したが、当然のことながら、掃除婦や警備員が何名か死んだだけに終わった、と証言している。

 クリントンは、CIAが1990年にルワンダでのジェノサイド(1990〜94年)にただちに気付いて警告を発するというめずらしいクリーンヒットを飛ばした時に、何もしようとはしなかった。
 その後クリントンに、更にCIAを嫌いにさせることが起きた。
 1991年に大統領に就任してすぐクーデターでハイチを逐われたアリスティド(Jean-Bertrand Aristide。1953年〜。大統領:1991年、1994〜96年、2001〜2004年)をクリントンが支援し、再びハイチの大統領にすえようとしていた時、ハイチの反アリスティド派の主立った連中が麻薬密売を行っていた諜報要員であってこの連中がCIAによって資金を与えられ訓練されたことを知ったからだ。
 このこともあって、爾来、クリントンは、CIA関係はホワイトハウスの諜報担当補佐官のテネット(George J. Tenet。後にCIA長官)に任せっきりにした。

3 終わりに

 米国は、エリントのNSAは大したものだけれど、ヒューミントのCIAはひどいものですね。
 これなら、日本も諜報機関を作る気にさえなれば、比較的短時間でCIAには追いつき、追い越すことができるかもしれません。
 問題は、諜報機関を政治家が使いこなせるかどうかでしょう。
 それにしても、一体いつ日本は諜報機関を作る気になるのでしょうか。

(完)