太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/

太田述正コラム#1876(2007.7.23)
<CIAの実相(その2)>(2008.1.20公開)

  ウ 日本

 CIAの前身のOSS時代に遡れば、OSSは、蒋介石に自在に操られた(日本にとっては迷惑な話(太田))し、リスボンの日本大使館に暗号書を盗む計画を察知され、日本が外交暗号を変えたために1943年の夏には米国は日本の外交文書から軍事情報をとる手段を絶たれ、おかげで太平洋戦線で多くの米兵が不必要に命を奪われた(日本にとってはありがたい話(太田))。
 CIAと日本の最初の関わりと言えば、朝鮮戦争の頃、二重スパイの疑いのある人物を、米本土の法令が適用されない米国の占領地域たるドイツ、パナマ運河地区や日本に送って、洗脳し、厳しい、薬物を使った尋問を行ったことだ。
 米国が当時の占領地域を失った後もCIAは、薬物等を使ったマインドコントロール手法による敵性人物の尋問を米本土以外で続けた。
 現行の対テロ戦争におけるキューバのグアンタナモ基地やイラクのアブグレイブ牢獄における「拷問」的尋問はCIAに由来するものなのだ。
 (ここは、ワイナーの本のもう一つの書評、
http://www.boston.com/ae/books/articles/2007/07/15/artificial_intelligence/
(7月23日アクセス)による。)

 「主権回復」後の日本の政治へのCIAの介入については、私(ワイナー)自身が1994年にニューヨークタイムスに書いた記事で初めて暴露したところだ。
 CIAは何百万ドルも使って戦争犯罪人の岸信介を1957年に首相の座につけようとした(注3)。そして、その後も自民党の重鎮連中に多額の賄賂を与え続けた。

 (注3)CIA、ひいては戦後の歴代の米政府は、岸派及びその後継派閥である清和会・・首相としては岸・福田・森・小泉・安倍・・と最もねんごろであり続けた。このあたりのことは改めてとりあげてみたい。(太田)

 CIAのカネのおかげで、自民党は今日に至るまで日本の政治を支配し続けることになる。

 CIAの日本との関わりはもちろんその後も続いている。
 1994年の日米通商交渉にあたって米国の交渉団にずっと付き添っていたのがCIAのチームだった。毎朝、通商代表のカンター(Mickey Kantor)とその補佐官達に対し、CIAの東京局のヒューミント(人的情報)と米国家安全保障庁(National Security Agency=NSA)のエリント(電子情報)(注4)をワシントンのCIA分析官達が精査してとりまとめた日本側の内部情報を、このチームが説明したものだ。
 (ここは、ワイナーがもう一人の記者と共同執筆したニューヨークタイムス記事の抄録
http://intellit.muskingum.edu/cia_folder/cia90s_folder/cia95-96gen.html
(7月23日アクセス)による。)

 (注4)米国が他のアングロサクソン諸国と共同でアングロサクソン諸国の友邦国を含む全世界の電話/FAXやEメールを盗聴している(コラム#105)ことは良く知られている。(太田)

  エ その他

 1949年のソ連の核実験を予想できなかったCIAは、1950年の北朝鮮による朝鮮戦争勃発も、中共の朝鮮戦争参戦も予想できなかった。
 また、ソ連内におけると同様、CIAは中共内にスパイを送り込むことも中共内でスパイを確保することもほとんどできなかった(注5)。

 (注5)大躍進政策の結果中共で餓死者が続出していた1959年2月時点で、CIAは何と、中共では食糧がめざましく増産されつつある、と分析していた(Chang&Hlliday, Mao--The Unknown Story PP451〜452)。また、1962年10月に起こった中印戦争は、その直前にキューバに核兵器を密かに持ち込んでいたソ連が、露見した場合の米国の反発に備えて中共と綻び賭けていたよりを戻すために、友好国であったインドを裏切ってまでして中共に対印攻撃のゴーサインを与えたために起きたというのに、当時、CIAはホワイトハウスからその可能性を指摘された際、真っ向からその可能性を否定したものだ(ibid. PP458〜459)。(太田)

 1953年にCIAは、セオドア・ローズベルト大統領の孫(Kim Roosevelt)の手で、イランで石油利権の奪還を目的とするクーデターを起こしてモサデク(Mohammed Mossadeq。1882〜1967年)首相を追放し、パーレビ(Mohammad Reza Pahlavi。1919〜80年)国王とパーレビの秘密警察サヴァク(SAVAK)を復権させた。
 この時の米国に対する怨念が1979年のCIAが全く予想できなかったイスラム革命の伏線となり、それがひいては今日の核武装を目論む反米・反イスラエルのイランをもたらしたのだ。

 1958年にはCIAはインドネシアのスカルノ(Sukarno。1901〜70年)政権が容共であるとして、スカルノ大統領の暗殺を試みたが、これによってスカルノは一層左傾化し、1965年に血腥いクーデターで打倒されるに至る。

 1973年にCIAはチリのアリェンデ(Salvador Isabelino Allende Gossens。1908〜73年)共産主義政権をクーデターで打倒するが、その結果チリはピノチェト(Augusto Jose Ramon Pinochet Ugarte。1915〜2006年)軍事独裁政権下の恐怖政治に呻吟することになる。

 また、1979年のソ連のアフガニスタン侵攻に対抗するために、CIAはアフガニスタンやパキスタンのイスラム過激派にカネや武器を注ぎ込んで支援したが、これがその後のアフガニスタンのタリバン政権樹立やアフガニスタンのアルカーイダ根拠地化をもたらしたことは良く知られている。
 
 1990年8月のイラクのクウェート侵攻はCIAにとっては文字通り青天の霹靂だった(注6)。
 
 (注6)当時、ゲーツ(Robert M. Gates)現国防長官は、ホワイトハウスにCIAから出向してブッシュ父大統領の首席諜報補佐官をしていたが、休暇をとって家族とピクニックに行っていた。その時、このニュースを知ったゲーツの奥さんの友人がゲーツに向かって「あなたこんなことしてていいの」と尋ね、ゲーツは「何の話?」と聞き返した。「侵攻があったのよ」と彼女が答え、ゲーツは「侵攻って何だ」と聞き返した。
 
 1998年のインドの核実験もCIAは全く予想できなかった。
 これくらいにしておこう。

(続く)

太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/