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太田述正コラム#2275(2008.1.2)
<ブット暗殺(その6)>

(脚注)ブットの首相時代の功績

 ブットの首相時代の功績に触れためずらしい記事をたった一つだけ見つけたので、要約してご紹介しておく。

 ブットは首相時代に、(イスラム法に由来する)女性に対する差別的な法制を是正しようとは全くしなかった。
 しかし、彼女の政党PPPの幹部に何人かの女性を登用したことは事実だ。
 またブットは、5万人の女性の職員を雇って田舎の女性に基礎的な健康管理・家族計画教育を提供する試みを始め、上級裁判所に初めての女性判事を任命し、(女性特有の犯罪被害者向けの)女性だけの警察署を設置したし、女性だけに資金を貸し付けるパキスタン女性銀行を創設した。(
http://www.csmonitor.com/2008/0102/p05s02-wogn.htm
。1月2日アクセス)
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 ブットは代々封建的大地主の家に、オックスフォードを卒業して弁護士となり、政治家となった父ブットの最初の子供としてパキスタン南部に生まれます。
 イギリス人女性家庭教師の訓育を受け、カラチのミッション系の英語の学校を経て、彼女はハーバード大学を卒業し、その後今度はオックスフォードを1976年に卒業し、政治学士号を二つ獲得します。
 オックスフォードでは伝統あるディベートクラブであるOxford Unionの会長を女性として史上初めて務めたことは以前にも(コラム#1883で)触れましたが、これは会長選に二度挑んで敗れ、三度目に初めて当選したものです。
 彼女は当時、アイスクリームに目が無く、英国等の国王達の伝記や恋愛小説を読みふけったり、ハロッド等をぶらついたり、冬にはスイスでスキーをするという完全に欧米化した生活を送りましたが、このような生活を彼女はその後も続けるのです。
 (以上、
http://www.guardian.co.uk/pakistan/Story/0,,2232882,00.html
(12月29日アクセス)、及び
http://www.nytimes.com/2007/12/28/world/asia/28bhutto.html?hp=&pagewanted=print(前掲)による。)

 当然彼女はネイティブ並の英語を話しましたが、パキスタンの公式言語であるウルドゥー語は文法が間違いだらけの形でしかしゃべれませんでしたし、彼女の故郷のパキスタン南部の言葉であるシンディ語に至ってはそれはひどいものでした(
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/story/0,,2233334,00.html
。前掲)。

 しかし、以上はブットの外見に過ぎませんでした。
 実際のブットは骨の髄までパキスタンの封建貴族的な人間だったのです。

 その証拠に1987年に彼女は、母親が選んだ、建設会社とポロのチームのオーナーであり、ブット家同様の南部の大金持ちの大土地所有の家の息子であるザルダリ(Asif Ali Zardari)と見合い結婚します。
 これは、ブットがザルダリに初めて会ったのが結婚の1週間ほど前という典型的な南アジア流の見合い結婚でした。
 唯一ブットが欧米流を発揮したのは、持参金(dowry)を家族に支払わせなかったことくらいです。
 もう一つの例証は、彼女が首相時代の1994年のインタビューで、自分の子供達にも政治家になってもらいたいかと聞かれた時に、ブットが、自分のことは棚に上げて、危険すぎるので政治家にはなってもらいたくないとした上で、息子には弁護士になって欲しいし、娘にはソシアル・ワーカーになって欲しいと男女差別丸出しの答えをしたことです(
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/12/27/AR2007122702001_pf.html
。12月28日アクセス)。
 こんなブット夫妻が妻の首相時代にやったことと言えば、ひたすら不正蓄財に励むことでした。
 ザルダリにはミスター・10パーセントというあだ名がパキスタンの人々からつけられます。あらゆる政府調達の上前を10%はねたと噂されたからです。
 これに連座する形でブットにも腐敗の疑いがかけられ、彼女は2度にわたって首相の座を逐われることになるのです。
 ブットが2度目の首相の座を逐われてから、ザルダリの方は殺人(後述)と腐敗の容疑で、ムシャラフによって釈放されるまでパキスタンの拘置所で8年間過ごすことになりますし、ブットの方に対しては、スイスの裁判所がマネー・ロンダリングの罪で執行猶予付きの懲役六ヶ月の判決を下しています。
 (以上、
http://www.nytimes.com/2007/12/28/world/asia/28bhutto.html?hp=&pagewanted=print
(前掲)、及び
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/12/27/AR2007122702001_pf.html
(12月28日アクセス)による。)

 この間、ブット一家に次々に怪事件が起こります。
 まず、ブットの若い方の弟シャーナワズ(Shahnawaz)が1985年にブット家のフランス・カンヌのマンションで毒死します。
 フランスの捜査当局は、ブット父の巨額の遺産相続をめぐる家族内の争いが背景にあるとふんだのですが、結局立件には至りませんでした。
 ブットの上の方の弟ムルタザ(Murtaza)はシャーナワズとともにハク将軍を打倒するテログループを組織した人物です。1980年代にはシリアに亡命しており、パキスタンには1994年に戻るのですが、帰国するやPPPの終身総裁に自らを任じていたブットとの間でPPPの指導権争いを演じ(注3)、かつまたブット父の首相時代にスイスの銀行に貯め込んだカネをめぐってもブットと一悶着を起こしたところ、1998年に彼のカラチのブット家の前で警官隊との対峙の末銃撃され死亡します。

 (注3)ブットのイラン出身の母親ニスラット(Nisrat)は、ムルタザの側に立ち、娘ブットの政府は情け容赦がないとし、独裁者の時代よりもひどいと公言した(
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/12/27/AR2007122702001_pf.html
(前掲)。

 ムルタザがシリア時代に結婚したレバノン出身の彼の妻ギンバ(Ghinva)と娘ファティマ(Fatima)はザルダリが暗殺の黒幕であると非難し、これをニスラットが支持し、「自分の乳房で<ブットという>毒蛇を育てたとは知る由もなかった」と嘆く、という騒ぎになります。
 (以上、特に断っていないかぎり
http://www.latimes.com/news/opinion/la-oe-wilentz28dec28,0,7386357,print.story?coll=la-home-commentary
(12月28日アクセス)、
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/story/0,,2233334,00.html。12月30日アクセス
(前掲)、及び
http://www.nytimes.com/2007/12/28/world/asia/28bhutto.html?hp=&pagewanted=prin
(前掲)による。)

(続く)
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<太田>

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太田述正コラム#2276(2008.1.2)
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