太田述正コラム#1847(2007.7.2)
<セポイの反乱(その2)>(2008.1.1公開)

 (本篇は、コラム#1769の続きです。)

 どうしてセポイの反乱(1857〜59年)が起こったかを理解するためには、時計の針をプラッシーの戦い(Battle of Plassey。1757年)まで、ちょうど1世紀巻き戻す必要があります。
 
 ムガール帝国の絶頂期はアウラングゼーブ(Aurangzeb)第6代皇帝(1618〜1707年。在位1658〜1707年)の時代でした。
 彼の治世下の1691年にムガール帝国の領土は最も大きくなりますが、その度重なる遠征によって財政は悪化します。また、第3代のアクバル大帝(Akbar the Great。在位1556 〜1605年)以来のイスラム教以外にも寛容な政策を一変させ、1679年にイスラム法(シャリア)に則り、ジズヤ(非イスラム教徒に課せられた人頭税)を復活させるなど、ヒンズー教徒等に厳しい弾圧を行ったため、各地で反乱が激化し、帝国は次第に分裂の方向に向かって行ったのです。
 (以上、
http://www.sscnet.ucla.edu/southasia/History/Mughals/mughals.html  
(6月30日アクセス)、及び
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%BC%E3%83%BC%E3%83%96
(7月2日アクセス)による。)

 今年の7月23日は、プラッシーの戦い250周年であり、100年前に英国が戦勝記念に建てた碑のすぐ前に、この戦いで英国人クライブ(Robert Clive。1725〜74年)の率いる英東インド会社(注1)軍に敗れたシラジ(Siraj Ud Daulah。1733〜57年)ベンガル太守(Nawab of Bengal)の胸像が建てられ、式典が挙行されました。
 英国の戦勝記念碑はこの際撤去すべきだという議論も出たものの、結局残すことにした、というのがインドの面白いところです。

 (注1)イギリスで1600年創立。1608年ムガール皇帝から、会社が拠点としていた港町のスラット(Surat)に工場を建設することを認められ、1717年には皇帝からベンガルにおける関税を免除される。

 さて、プラッシーの戦いです。
 東インド会社がカルカッタに勝手に要塞(Fort William)をつくったとしてシラジがこの要塞の破壊を要求し、東インド会社が拒否したために、シラジは1756年にこの要塞を含め、カルカッタを占領します。
 その時、146名の英国人がこの要塞のわずか24フィートx18フィートの部屋に詰め込まれて窒息し、23名しか生き延びなかった、といういわゆるカルカッタの黒い穴(The Black Hole of Calcutta)事件が起きます(注2)。

 (注2)拘束された英国人はせいぜい69名だったし、そもそも146名がこんなに狭い部屋に入れるわけがない、等、この話は眉唾だという説も有力だ。なお、シラジにはこの事件の直接的責任はなさそうだ。

 東インド会社軍を率いたクライブは、カルカッタ郊外のプラッシーで650名の英国兵を含む3,000名の兵を率いて、フランスが支援するシラジの68,000名の大軍を打ち破り、すぐにカルカッタを取り戻すのです。

 新しく任命されたベンガル太守は東インド会社に対する融和政策をとり、次第に会社の傀儡となっていきます。
 1764年10月、ムガール帝国勢力をブクサールで打ち破ったことで東インド会社のインド支配は本格化し、1765年には同会社はベンガル、オリッサ、ビハールでの租税徴収権を皇帝から授与され、爾後これを次第に拡大していきます。英国は1773年に初代のインド総督(Governor-General of India)にヘースティングス(Warren Hastings。1732〜1818年)を任命します。やがて1807年にはムガール皇帝は東インド会社の単なる年金受領者になり、次第にインド亜大陸全体が英国の植民地と化していくのです。
 つまり、プラッシーの戦いは、英国をしてインド亜大陸における競争者フランスを排斥せしめ、英国によるインド亜大陸単独支配を可能ならしめ、ひいてはインド亜大陸を中心とする大英帝国の形成を可能ならしめ、150年以上にわたって英国を世界の覇権国としての地位に立たしめることとなった、世界史の分水嶺たる戦いであったのです。

 なお、クライブのこの戦いでの勝利は、ベンガル太守の座を狙っていた者を内応させ、また多くの兵士達を賄賂で戦わずして降伏させたり寝返らせたりすることによってもたらされたものでした。
 ネール(Jawaharlal Nehru)は、著書の『インドの発見』(1946年)の中で、クライブはこの戦いに「大逆とインチキによって」勝利したとし、英国のインド支配は、「このような芳しからぬ形で始まったがゆえに、その影を爾来ずっと引きずることになった」と記しています。

 (以上、
http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/6242346.stm
http://www.bbc.co.uk/shropshire/content/articles/2005/03/29/robert_clive_feature.shtml
http://www.sscnet.ucla.edu/southasia/History/British/Hastings.html
http://www.sscnet.ucla.edu/southasia/History/British/EAco.html
http://www.sscnet.ucla.edu/southasia/History/British/Blackh.html
http://www.sscnet.ucla.edu/southasia/History/British/Plassey.html
http://www.sscnet.ucla.edu/southasia/History/British/Siraj.html
(以上、6月30日アクセス)、及び
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
(7月2日アクセス)による。)

(続く)