太田述正コラム#2186(2007.11.19)
<大蔵官僚群像(その3)>(2007.12.26公開)

 (本篇は、当分の間、公開しません。)

 (当時、事務次官も官房長も大蔵官僚であったことを付け加えておこう。池田経理局長も私も、彼らには当たり障りのないことしか伝えなかった。)

 (3)秋山昌廣氏のこと

 1994年7月、私は教育訓練局教育課長から防衛大学校総務部長に転じました。
 他方、守屋は広報課長から、防衛局防衛課長に転じ、二人の間で天と地ほどの差が生じたのです。
 警察から出向してきていた私の上司の教育訓練局長が、やはり大蔵官僚の次官によって、私の異動と同時期に馘首されるという出来事が同時に起こっていたこともあり、私は黙って防大に赴任することにしました。
 私が転任の挨拶に秋山経理局長のところに行くと、うかぬ顔をしていたのか、秋山氏は、私に、「君、防大に行くのが不満なのか」とおっしゃる(注2)。

 (注2)私が1988年に英国の国防省の大学校に留学した時の副校長の一人にソールト(James Salt)英海軍少将がいる。彼は、1982年のフォークランド戦争の時にアルゼンチン軍の攻撃を受けて沈没した駆逐艦シェフィールドの艦長だった人物だ。彼が英国防省の仕事で来日した時、防大にいた私は、彼の求めに応じて海幕で再会を果たしたが、彼は私が防大総務部長をしていると言うと、残念そうなまなざしで、「君はそこに隠棲しているというわけだ」と語った。彼は留学当時の私を大変買っており、「君は間違いなく次官になる人物だ」と言っていただけに、再会時のこの言葉は私の胸に染みた。だから、秋山局長のこの発言は、私にとっては嫌み以外の何物でもなかった。
 
 私は、あえて「いやとんでもない」と答え、局長室を辞しました(注3)。
 
 (注3)いささか口幅ったいけれど、これは防大のためにはなった人事だとは思う。
 私のおかげで、防大は創立50周年事業・・キャンパスの全面的刷新等・・を立ち上げることができたからだ。

 秋山氏は、日比谷高校の先輩であり、大蔵省から防衛審議官(官房審議官)として防衛庁に出向してくると、開店休業状態だった防衛庁での日比谷高校同窓会を再開することを私に求め、私はその幹事役を務めされられました。
 また、秋山氏は在カナダ日本大使館勤務経歴があり、同じ経歴の防衛庁キャリアとも会合を持ち始めました。
 後に彼は防衛事務次官になりますが、それまでには、これらの会は全く開かれなくなっていました。
 結局、これらの会合の目的は、ご自分が確実に次官になるための布石に過ぎなかったとその後思うようになりました。
 秋山氏には、彼の人事局長時代にも、人事第二課長として、随分こき使われたものです。
 その秋山氏は、事務次官になってから1年経った1998年7月の時点で、防大を経て引き続き施設庁に「蟄居」させられていた私を、さすがに可哀想に思ったのか、防衛審議官として内局に呼び返してくれました。しかも、人事局を中心とする審議官としての私の所掌の中に、防衛交流全般を担当している防衛局の反対を押し切って「東南アジア諸国との防衛交流」を加えてくれたのです。おかげで私はマレーシアへと久方ぶりに海外出張することができました。
 ところが、調達実施本部不祥事が起こり、秋山氏はその年の11月に事務次官を辞めざるを得なくなります。
 私が選挙に出馬するために防衛庁を退職した年の次の年である2002年の3月に、私はこの前防衛事務次官である秋山氏が、台湾の秘密資金で、1999年4月から2001年6月までハーバード大学に客員研究員として行かせてもらっていたことを知り、ある勉強会での講師としての講話の中で、抑制したトーンでこのことの問題点を指摘し、「秋山氏ご自身の弁明をぜひともうかがいたいものです」と結びました。そしてこの講話はミニコミ誌に掲載され、私のコラムにも転載されました(コラム#26)。
 これがお気に召さなかったとみえ、翌2003年に私が金融系の某シンクタンクの嘱託的な仕事に就く運びになった時、このシンクタンクの社長がパーティーで秋山氏と立ち話をした際、私のことを話題にしたところ、秋山氏が、恩を仇で返されたと思ったのか、私の「採用」に難色を示し、おかげでこの話は流れてしまいました。
 まことに薄情な先輩兼大蔵官僚がいたものです(注4)。

 (注4)秋山氏は現在、立教大学大学院特任教授をしている。

 防衛関係企業からだけでなく、もはや大蔵省関係企業からも私は収入を得ることはできなくなったこと、つまりは、日本のほとんどすべての企業から収入を得られなくなってしまったことをこの時痛切に自覚し、私は臍をかみました。
 こうして、私の本当の試練の日々が始まったのです。

(完)