太田述正コラム#2183(2007.11.17)
<大蔵官僚群像(その1)>(2007.12.13公開)

 (本篇は、当分の間公開しません。)

1 始めに

 私の東大法学部時代と言えば、駒場時代に東大紛争で10ヶ月授業がなかったのに、3ヶ月遅れで卒業させるべく、過密な授業日程が組まれたため、大変だったという記憶しかありません。
 とった授業の一つが、山本圭一(だったっけ?)教授のフランス法の授業です。
 出席学生が3〜4名だったこともあり、山本先生、ご自分の分厚い著書をみんなにプレゼントしたり、神田の山の上ホテルでみんなにメシを食わせてくれたり、と至れり尽くせりのサービスをしてくれました。
 その山本教授が、ある日私と二人っきりの時にこう言いました。
 「大蔵官僚は恐ろしいほど頭が切れ、かつ豪腕を発揮する」と。
 東大法学部教授を畏怖させる大蔵官僚とはどんな連中か、とその時思いました。
 駒場での同級生から大蔵官僚になった者はいなかったので、防衛庁に入ってから、初めて大蔵官僚と遭遇することになりました。
 以下は、私の雑駁なる体験的大蔵官僚論です。

2 私の体験的大蔵官僚論

 (1)防衛庁に入り立ての頃

 私は1971年7月に防衛庁に入ると、経理局会計課に配属されたのですが、予算決算班長も会計課長も経理局長もみんな大蔵官僚でしたし、課長補佐クラスの班員にも2人も大蔵官僚がいました。
 何て言うことはない。
 みんなフツーのいい人達でした。
 経理局長の田代さんは私をかわいがってくれ、私が1974年に留学することが決まった時、私は、庁内で推薦状をお願いする・・と言っても実際には私が作成するのだが・・二人の上司のうちの一人に選びました。
 当時、田代さんは防衛施設庁長官をしていましたが、私が長官室に推薦状の依頼に行った折、「うらやましいなあ。僕が代わって行きたいよ。」と心をこめて言ってくれたのが忘れられません。
 いい人だと思いませんか?
 しかし、大蔵官僚には、別のタイプ、ワル(悪源太景時の「悪」)のタイプもあることがすぐ分かりました。
 以前(コラム#2082で)「私が防衛庁に入ったばかりの頃、当時大蔵省で防衛担当の主査の1人であった伊吹氏のもとに防衛庁の資料を届けさせられたことがある。その時、その資料の内容を既に知っていた伊吹<現自民党幹事長>氏が、私に向かって防衛庁はけしからんと怒鳴りつけた。カネを握っているというだけで、他省の、しかも単なる走り使いにこういう態度で接する伊吹氏に呆れたものだ。」と記したことを覚えておられますか。
 その折、伊吹さんの隣にすわっていた岡下という主査も伊吹さんに加勢しておっそろしいの何のって。
 大蔵省というところは、山賊のような連中のアジトか、と思ったものです(注1)。

 (注1)伊吹さんについては、その「人権メタボリック症候群」発言についてコラム#1686で、また、守屋事件に関して、「<守屋氏は>本当に困った人だ」発言についてコラム#2141で言及したところだが、その直後に自民党幹事長たる同氏は、守屋のゴルフの回数に関して、「それにしても防衛省ってところはヒマなんだね」と発言した。前者は、「他省庁における接待や(悪くすると)天下り問題にまで波及しかねないとんでもないことを守屋はしでかしてくれた」という意味であるし、後者は、「フツーの省庁では仕事が精神的にも肉体的にもきつく、毎週末ゴルフをやるだけの気力は残らない。それに週末には、勉強だってしなければならない。防衛省の仕事はそれほどラクで、しかも勉強しなくても勤まるとみえる」という意味だ。さすがは元大蔵官僚だけあって、短い言葉で本質をついている、と感心した。

 2年目(入庁してから9ヶ月経った1972年4月)、私は防衛局防衛課(当時)に異動しました。
 異動してからしばらくすると、同課の筆頭課長補佐にあたる防衛庁キャリアの先輩が、「2年続けて人事院の長期在外研究員試験に防衛庁からの受験者が不合格になっており、このままだと、毎年1人という防衛庁に与えられた枠が減らされる懼れがある。君は帰国子女で英語ができる。ぜひ留学して欲しい」と言うので、(今から思うと何たる傲慢さかと穴があったら入りたいここちですが、)「海外経験が長かったので今さら留学する気はなかったけれど、そういう事情なら留学してあげましょう」と答えました。
 すると、防衛庁としては慎重の上にも慎重を期して、初めてのことですが、私を夜、英語学校(四谷の日米英会話学院)に通わせてくれました。
 試験を受けると、ペーパーテストだけだったので、最上級クラス中の最上級クラスに配属されました。
 入った時点で、このクラスで一言も英語が話せなかったのは私だけです。
 ヒアリング能力はそれほど衰えてはいませんでしたが、小学校5年でエジプトから帰国して以来、全く英語を話したことがなかったので、無理からぬことでした。
 そこで出会ったのが、大蔵省から同じ語学学校に通わされた原田君(大学では数学専攻)です。
 私と違って、英語圏居住歴がないにもかかわらず、最上級クラスに配属されたのですから大変な能力です。
 こいつもいい奴で、しばらく経つと私の会話力も徐々に回復してきて、私が英語で、「何故にクラシック音楽は作曲されなくなったと君は思うか」と聞くと、原田君がやはり英語で、「それは、ワーグナーがあらゆる音楽的旋律を作曲し尽くしたからであるという説がある」と答える、といった会話を二人の間で交わすようになりました。
 やがて在外研究院試験に合格して人事院での一ヶ月の研修が始まると、在学中は面識の無かった法学部同期で大蔵官僚の渡辺君(後、財務官)が一緒でした。彼はさわやかな好人物であり、結構親しくなりました。
 ずっと後に日本青年会議所顧問団の一員になったのは、彼の推薦だったように記憶しています。

(続く)