太田述正コラム#2201(2007.11.28)
<皆さんとディスカッション(続x7)>

<遠江人>

太田述正コラム#2012(2007.8.20)<死の差別化と交通事故>
http://blog.mag2.com/m/log/0000101909/108980664.html?page=7
 2ヶ月近く前のコラムで恐縮ですが、気になっていた内容だったのでいつか感想を書き込むつもりでした。
 以下、感想です。

 交通事故による死はなぜ軽視されるのか。
 結局のところ、人類が自動車社会から享受している恩恵であるところの

・経済成長
・便利であること

の前には、交通事故によって世界中でどれだけ人が死んでいようと、我々はそれに見向きもしないのでしょうね。
 数字の上では、交通事故は戦争以上の(社会的要因による不本意な死の強要という意味での)災難であるのだから、自動車社会がもたらす豊かさと便利さをある程度犠牲にしてでも交通事故を減らすべきだという考え方があってもいいところ、そんな考えは自動車社会の恩恵の前には想像することすらされていないように 感じます。
 戦争による死を批判する人はたくさんいる一方で、交通事故による死を同列のものとして批判する人がいないのは何故なのか。究極的には、豊かさと便利さを僅かでも犠牲にしたくないという人間のエゴイズムによって、故意ではなく過失なのだからと無意識のうちに都合よく死が差別され、結果として自分でも気づかないうちに不可逆的に交通事故による大量殺人を是認してしまっている、と言えるのではないでしょうか。
 (交通事故で死ぬかもしれないという)リスクは覚悟した上で自動車社会のメリットを享受するという選択を人類はしているのだから、しょうがないではないかと言われればその通りなのですが、豊かさと便利さを犠牲にしてでも人間の命を救うべきだという、違った可能性もあるのではないかと考えてみることも、必要なことなのかもしれません。

<太田>

 この関連で皆さんにお考えいただきたいのは、死刑の存廃論です。
 日本は憲法で戦争を放棄し、軍隊の保持を禁止しています。
 ですから、戦闘行為によって(軍隊にあらざる)自衛隊が人を殺すことも、自衛官が殺されることもありえません。
 この憲法の精神に照らせば、「国権の発動」としての殺人である死刑についても、許されてよいわけがありません。
 ところが、憲法第9条墨守論者と死刑廃止論者とは必ずしもオーバーラップしていません。
 不思議で仕方がありません。
 他方、世界で死刑廃止論が主流になりつつあることにも私は奇異な念を抱かざるをえません。 
 死刑を廃止した地域(例えばEU)にせよ国にせよ、日本の憲法第9条と同趣旨の憲法条項を持つところが一つもないからです。
 人間の世界ではどうしてこんな偽善がまかり通るのでしょうか。
 (死刑に係る誤審の可能性が喧伝されますが、戦争が過誤によって起こることがめずらしくなく、しかも戦争の過程で同士討ちや民間人の死者・・いわゆるコラテラルダメッジ・・が生じることが避けられないことを思い出してください。)

<匿名>

 いつも楽しく読ませていただいてます。
 最近、外国人参政権についてまた話題がもちあがっているようですね。
 それについての太田さんの話を聞いてみたいと思いました。
 既出でしたらすみません。

<太田>

 検討したことがないので、アバウトな議論であることをお断りしておきます。
 本来地方参政権を一定の要件をみたす外国人に与えるかどうか、なんて大した話ではありません。
 しかし、日本の場合、国政レベルでも外交や安全保障をやっていない・・宗主国の米国にぶん投げている・・ことからすれば、地方参政権を与える以上は国政への参政権を与えないのはおかしいということにならざるをえません。
 フツーの国では、国政への参政権を得るということは、徴兵の義務を負うことと同値です。権利には義務が伴うということです。
 しかし、日本では国政への参政権を付与すれば、それは一方的特権の付与を意味します。
 ここのところをよくお考えいただきたいものです。

<読者>

 因みに裁判所も体制の一部でしょうか?

<太田>

 もちろんです。
 現在の最高裁判事の一人は何と元社会保険庁長官です。
 ご存知でしたか。
 最高裁判事は政官業癒着体制の下で自民党恒久政権たる行政府が1955年以降一貫して(実質)任命してきました。
 その最高裁判事達からなる裁判官会議が裁判所全体の管理運営を行ってきたわけです。
 ですから、体制の根幹をゆるがすような判決が裁判所から出てくることはありえません。
 その、いささか我田引水的例証が私の名誉毀損訴訟での(1審2審とも)敗訴、確定です。
 検察・警察並びに創価学会を批判した書物の内容を私が引用紹介した(ただし引用紹介の中で、一部私が誤りを犯した)だけで50万円とられることになったのですよ。
 これは、3点著しく問題がある判決です。
 第一に、本に書かれていることの真否を自ら証明できない限りその本を引用紹介してはならないとされたに等しい判決であることです。
 そして第二に、公共の利益に係る事案においても、事実の真否の挙証責任が市民側にあることを再確認した判決であることです。ちなみに米国では判例で、挙証責任は公務員(旧公務員を含む)側にあることが確立しています。
 更に第三に、1審2審とも裁判官達がインターネット上の言論の実状を全く知らずして判決を下したとしか思えないことです。
 具体的に言えば、インターネット上は名誉毀損的、あるいは事実に反する言論だらけであるけれど、インターネット上では、一方で日々名誉毀損的言論が正され、事実に反する言論が訂正・撤回されるのが当たり前であること、原告の千葉英司氏が、問題にした私の(インターネット上の)コラム(#195)の削除も、本件訴訟の経緯を記したコラムの(インターネット上への)上梓の中止も、私による謝罪文の(インターネット上への)掲載も求めなかったことのナンセンスさ、を裁判官達が全く分かっていないことです。
 その結果、千葉氏は、コラム#195だけでなく、本件訴訟の経緯の詳細についても、私が当該コラム中では匿名にしておいた「千葉英司」という実名付きでネット上に晒され続ける羽目に陥ったのです。
 つまり、千葉氏は50万円でご本人の名誉を私に売ったことになってしまった・・一事不再理であることに注意・・わけであり、裁判所は全く千葉氏の権利救済を果たさなかった、つまりは全く紛争を解決しなかったというべきでしょう。
 私だって50万円に加えて2審の弁護士費用という巨額の無意味な出費を強いられたわけで、怒り心頭です。
 こんな裁判所は無い方がマシだと言いたくなります。
 政権交代の折には、裁判所の解体的改革もまた断行しなければなりません。
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太田述正コラム#2202(2007.11.28)
<田村秀昭氏への初見参>

→非公開