太田述正コラム#1769(2007.5.15)
<セポイの反乱(その1)>(2007.11.18公開)

1 始めに

 セポイの反乱をとりあげた、英国人歴史家・紀行作家・ジャーナリストであるダリンプル(William Dalrymple。1965年〜)の' The Last Mughal: The Fall of a Dynasty, Delhi 1857’は、昨年来、評判です。
 さっそくその概要の紹介を兼ねてセポイの反乱の真相に迫ってみましょう。

 (以下、特に断っていない限り、
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/story/0,,2076320,00.html  
(5月10日アクセス)*、
http://www.latimes.com/news/opinion/la-op-dalrymple13may13,0,6376935,print.story?coll=la-opinion-rightrail
(5月14日アクセス)*
http://www.newstatesman.com/200610160035
(5月15日アクセス。以下同じ)*、
http://books.guardian.co.uk/reviews/history/0,,1928333,00.html
http://www.hindustantimes.com/StoryPage/Print.aspx?Id=7ec3a2e5-2187-4e29-a9bb-45e55e04796e
http://www.nytimes.com/2007/04/22/books/review/Harshaw.t.html?ei=5070&en=ecbae86b782f8e5d&ex=1179374400&pagewanted=print
http://books.guardian.co.uk/reviews/history/0,,1944872,00.html
による。*はダリンプル自身が執筆しているもの。)

2 ダリンプルいわく

 (1)ムガール帝国最後の皇帝

 バハドル・シャー・ザファール(Bahadur Shah Zafar2。Zafarはペンネームでウルドゥー語で「勝利」の意味。1775〜1862年。皇帝:1838〜58年)がムガール帝国最後の皇帝となったのは、セポイの反乱(Indian Rebellion of 1857=First War of Indian Independence )のためだ。
 彼が生まれた頃は、英国はまだインド亜大陸沿岸部しか手中には収めていなかったが、彼が60歳台半ばで帝位を継いだ頃には、もはやムガール帝国の頽勢を食い止めることは不可能な状況になっていた。
 しかし、彼は、デリー(Delhi)で宮廷文化の華を咲かせた。
 彼は歴代のムガール皇帝の中で、最も才能があり、かつ寛容な好人物だった。
 宮廷付きの医師がキリスト教に改宗しても、彼は、廷臣達の反対を押し切ってそのままこの医師を宮廷に留めた。
 彼は、練達の書家にしてイスラム神秘主義(Sufism)について深い学識があり、素晴らしい造園家だった。また、5つの言語を話し、うち2つの言語を用いた神秘詩の秀でた作家でもあり、彼の下でインド史上最も偉大な文芸ルネッサンスが起こった。
 1857年の5月のある朝、300人のセポイ(sepoy(ベンガル語)。英東インド会社軍のインド人兵)がデリーに侵攻し、白人の男女、子供を手当たり次第に殺し始め、82歳になっていた彼にお墨付きを求めた。
 ザファールは英国人が嫌いだったが、反乱も性には合わなかった。当時の世界第一の軍事大国に、秩序がなく将校もいない貧民あがりのセポイ達が勝てるわけがないと思っていた。しかし、脅迫され、宮殿の一部も占拠されるに至って、仕方なく彼はセポイ達にお墨付きを与えたが、その一方で彼は52人の白人達を宮殿にかくまった。
 セポイの連中が彼の庭園を汚すと、彼はセポイ達との接見を拒否することで不快感を表明した。
 そして、セポイ達が上記52人を発見すると、ザファールは、涙を流し、女性や子供の命は救うように懇願した。しかし、結局全員が殺されるのをザファールは座視することになる。
 結局、139,000人いた東インド会社軍のセポイのうち、7,796人を除いて全員が反乱に加わり、やがてインド亜大陸の各地で民衆がこの反乱に呼応して立ち上がった。
 9月になると、今度は英軍がデリーを攻撃、占領し、住民中女性だけは助けられたが、男性は老人も子供も無差別に殺戮された。
 ムガール皇室の人々は、英軍に抵抗したわけではなかったが、ザファールの子孫のうち16人が裸にされた上で殺された。
 ザファールは裁判にかけられ、イスラム教徒達による陰謀の頭目となったとしてビルマ(ミャンマー)のラングーン(ヤンゴン)への流刑を宣告される。セポイの大部分はヒンズー教徒だったことからして、この判決がいかにインチキなものであるかが分かる。
 ラングーンでザファールが亡くなった時には、現地英国当局は、埋葬場所に墓標を立てることさえ禁じた。

 (2)セポイの反乱の背景と原因

 一体どうしてこの反乱が起こったのでしょうか。

(続く)