ミャンマー動く(続編)(前半)

 特別出血大サービスで7篇を2回に分けて一挙に公開します。
 ミャンマーの経済発展と自由民主主義化を心から祈念しつつ・・。

太田述正コラム#2087(2007.9.26)
<ミャンマー動く(続々)>

1 軍事政権反撃に出る

 9月25日、ミャンマーの軍事政権は60日間の期限で、最大の都市ヤンゴンと第二の都市マンダレーを対象に、2100から0500までの外出禁止令と5名以上の集会禁止令を発出しました。
 外出禁止令違反の罰則は不明ですが、集会禁止令違反の罰則は2年以内の懲役です。

 26日に、ついに軍事政権は反撃に出ました。
 ヤンゴンでのデモ隊に盾と警棒で殴りかかり、威嚇射撃も行ったのです。
 未確認情報によれば、約300人が逮捕されたといいます。
 これまでデモ隊を支援してきたコメディアン(Zarganar)ら2人の著名な反体制派も逮捕されました。

2 インターネット

 ミャンマーは報道の自由度が168か国中164位であり、外国人記者は入国できませんが、これまでの抗議行動がリアルタイムで全世界に伝えられてきたのはインターネットの賜です。
 僧侶達と一緒にデモをしている人々が携帯メールで動画や写真を撮り、インターネットカフェに飛び込んでは全世界に発信しているのです。

 ミャンマーはインターネット後進国の最たるものであり、2005年時点でインターネット人口は全人口の0.56%でしかなく、Eメールアドレスを持っている人はわずかに約2,500人に過ぎません。
 しかもプロバイダーは国営の2社しかなく、パソコン保有者はこの2社のどちらかに登録しなければならず、登録しないと15年以下の懲役刑が課されます。
 当然インターネットアクセスは当局によって規制され監視されているのですが、中共ほどは当局の技術が高くありません。
 しかも情報将校あがりのKhin Nyuntが首相であった2004年までに比べて、彼が失脚して以降の規制・監視はより穴だらけになっています。
 この規制・監視のかいくぐり方は、
http://www.rsf.org/rubrique.php3?id_rubrique=542
のようなサイトで教えてくれるので、上記の動画や写真のアップロードや、掲示板への投稿が、
http://ko-htike.blogspot.com/
のようなサイトになされているのです。

3 仏教

 英国がミャンマーを第1次、第2次を経て第3次英緬戦争(the Third Anglo-Burmese War 。1885〜86年)に勝利し征服した時、ミャンマーの仏教の最高指導者(Supreme Patriarch)の職を廃止し、仏教の組織的一体性を失わせました。
 ミャンマーの王政廃止とともに、英国の植民地統治がもたらした禍根と言えるでしょう。
 それにもかかわらず、仏教は根強い影響力を持ち続けました。
 英国の支配の影響でキリスト教が行政と教育に持ち込まれると、その大部分が仏教徒であるところのミャンマーの人々は強く反発し、僧侶達は独立と仏教防護の殉教者となり、数多くが英国当局の牢獄で死亡しました。
 独立後、ミャンマーの権力者達は仏教を自らの支配のために利用してきました。
 非軍人たるウヌー(U Nu)首相は、1950年代初期に平和寺院(Peace Pagoda)を建立し、1960年代には仏教優遇政策を推進し、キリスト教徒が多いカチン、チン、カレンなどの少数民族の反発を招きました。
 ネウィン(Ne Win)将軍も、彼の後継者の軍事支配者達も寺院を建立しています。
 そして、1988年以降は、軍事政権は仏教界と仏教関係の学校での教授内容を厳しく統制しています。
 もっとも、その統制は、個々の僧院や若手の僧侶達までは及んでいないようです。

 9月24日、軍事政権の慫慂に基づき、ミャンマーの公的仏教組織であるサンガ(Sangha)は、僧侶達に対し、教えを守り、信仰の普及に努めるよう指示し、若手の僧侶達は法律を破れと国内外の破壊分子グループから強制されている、という声明を発表したところです。

4 希望的観測

 1988年の抗議活動は、軍部の弾圧によって約3,000人の死者を出して挫折しましたが、今回の抗議活動は、1988年当時と違ってインターネットを通じて情報が世界に発信されている点と、同じく1988年と違って抗議活動の中心が学生達ではなく、尊敬を集めているがゆえに軍部も余りひどいことはできないと考えられている僧侶達が中心である点が異なることから、挫折を免れる可能性もある、と思いたいところです。

 (以上、全般的には
http://www.cnn.com/2007/WORLD/asiapcf/09/26/myanmar.protest.ap/index.html
http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/7013638.stm
http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/7012984.stm
仏教については、
http://www.latimes.com/news/opinion/la-oe-steinberg25sep25,0,1662933,print.story?coll=la-opinion-rightrail
(いずれも9月26日アクセス)による。)

太田述正コラム#2091(2007.9.28)
<ミャンマー動く(続x3)(その1)>(2007.11.12公開)

1 序に代えて・・長井さんの死

 9月27日、ヤンゴンで日本人の映像ジャーナリストの長井健司さん(50)がミャンマー軍治安部隊の兵士に至近距離から撃たれて殺害されました(
http://news.livedoor.com/article/detail/3324126/
。9月28日アクセス)。
 この種の事件について、安全な所にいて云々することは本来控えるべきでしょうし、長井さんにはまことにお気の毒なことではあるけれど、私は、彼が無謀であったという印象を拭いきれません。
 そもそも、ミャンマーでは原則、ジャーナリストの入国を禁止しており、長井さんも観光ビザで入国している(ライブドア上掲)のですから、取材活動を行ったことは違法である上、当局が26日1500を期して、反政府活動に関する情報や映像をアップロードしたウェブサイトやブログへのアクセスをブロックしたり、インターネットカフェを閉鎖したり、僧院や反政府政治家や学生運動のリーダー達への電話線や携帯電話の通信を遮断した(
http://www.latimes.com/news/opinion/la-ed-myanmar27sep27,0,1356818.story?coll=la-opinion-leftrail
http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/7016238.stm
(どちらも9月28日アクセス))という情勢に鑑みれば、銃を構えて接近してくる兵士に対して正面からビデオ撮影を続けるなど、自殺行為に等しかったと思います。
 今や、映像は銃に匹敵する武器であること・・たまたま映像を撮ることも銃で撃つことも英語では同じshootだ・・に思いを致すべきでしょう。
 幸か不幸か、長井さんの死は、その光景を密かに撮影した何枚かの写真が世界中に配信されたことによって無駄死ににはなりませんでした。
 最初から長井さんが、このような形での盗撮に徹しなかったことが残念でなりません。

2 強硬弾圧へ

 それまではほとんど手出しをしなかった治安部隊が、26日に、威嚇射撃をしたり僧侶達を拘束したりし始めました(ロサンゼルスタイムス上掲)。
 翌27日未明には、治安部隊が少なくともヤンゴン市内の5つと郊外の2つの僧院に侵入し、乱暴狼藉を働き、僧侶達を殴打した上で、数百人を逮捕・拉致しました。
 このため、同日のデモは前日より規模がかなり縮小したのですが、なお10,000人程度が参加しました。
 これに対し、治安部隊は、催涙弾を使ったり、警棒を振るったり、威嚇射撃をしたり、更に時折水平射撃をしたりしてデモの弾圧に努め、この過程で当局発表によっても長井さんを含む9名が死亡しました。
 (以上、
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/09/27/AR2007092700358_pf.html
(9月28日アクセス)による。)

3 今後の展望

 (1)今次反政府運動は成功するか?

 インドネシアのかつての軍事政権とミャンマーの軍事政権とを比較してみましょう。

 インドネシアとミャンマーはどちらも大きな熱帯の国であり、様々な民族と文化から成り立っていて、先の大戦後、混乱状況の中で植民地支配を脱したという共通点があります。
 また、根強い分離主義運動を抱えている点でも両国は共通しています。
 更に、軍が強力であり、国の統一を保持できる唯一の組織である点や、将校達がビジネスや政治に大いに関与している(注1)点でも共通しています。

 (注1)約10年前に開館したヤンゴンの軍事博物館の展示の中心は軍事より経済であり、ダム・飛行場・鉱山・刑務所・ホテル・観光業・ビーチリゾートなどが登場する(
http://www.nytimes.com/2007/09/26/world/asia/25cnd-generals.html?ref=world&pagewanted=print
。9月26日アクセス)。

 いずれも独裁者であったところの、インドネシアのスハルト(Suharto)も、ミャンマーのネウィン(Ne Win)も、貧しい家庭に育ち、迷信深く、かつ日本の占領下に日本によってつくられた軍事組織のメンバーあがりです(注2)。
 
 (注2)インドネシア建国の父スカルノ(Sukarno)やミャンマー建国の父アウンサン(Aung San)も、スハルトやネウィン同様、日本の軍事組織のメンバーあがりであり、これらの人々がいなければ、両国は独立することも、独立後の国の統一を維持することもできなかったということであり、これは良かれ悪しかれ、日本による占領の影響の大きさを示すものだ。

 ところが、スカルノを倒したスハルトは開放的な開発独裁路線を採ったのに対し、アウンサンの死後しばらくして権力を掌握したネウィンは、一貫して閉鎖的な社会主義路線を採り続けました。
 このため、インドネシアには欧米諸国や日本が経済援助と投資を行い、インドネシア経済は成長を続けて中産階級が育ったのに、ミャンマーでは経済が停滞し、中産階級が育ちませんでした。

 冷戦が終わった頃には、中産階級がスハルト政権の腐敗と人権抑圧に反発を強め、欧米諸国もそれに同調します。
 こうして、中産階級の手によってスハルト政権は倒れるに至るのです。

 ミャンマーの現在の軍事政権は、1990年代に入ってから、遅ればせながらインドネシア流の開発独裁路線への切り替えを図ったのですが、既に冷戦は終わっており、欧米諸国は、この軍事政権が腐敗(注3)と人権抑圧を止めない限り、経済援助や投資を行おうとはしませんでした。

 (注3)軍事政権の最高指導者のタンシュウェ(Than Shwe)大将の娘が昨年結婚式をあげた際、彼女がダイヤがちりばめられた豪華な衣装をまとい、(ミャンマーの一人当たり所得が年200米ドルだというのに、)5,000万米ドル相当の結婚祝いをもらったという話が映像付きで全世界のインターネット上に流れたことは記憶に新しい(NYタイムス上掲及び、
http://www.guardian.co.uk/international/story/0,,2178992,00.html
(9月28日アクセス))。

 しかし、ミャンマーでは中産階級が育っていないため、軍部に対抗する勢力がありません。
 だからこそ、中産階級に代わって、いわば根無し草であるところの、学生や僧侶達が反政府活動の矢面に立たざるを得ないということであり、だからこそ容易にミャンマーの軍事政権は倒れないのです。

 (以上、特に断っていない限り
http://www.ft.com/cms/s/0/11908dfe-6d22-11dc-ab19-0000779fd2ac.html
(9月28日アクセス)による。)

 (2)鍵を握っているのは中共とインド

(続く)

太田述正コラム#2093(2007.9.29)
<ミャンマー動く(特別編)>(2007.11.12公開)

1 始めに

 少し、コーヒーブレイクと行きましょう。

2 ミャンマー最後の国王即位のいきさつ

 1878年にミャンマーのミンドンミン(Mindon Min)王(注1)が瀕死の状態に陥った時、王妃は彼女の義理の息子であるまだ少年のティボー(Thibaw)王子を82人の王位承継資格者を退けて王位に就けようとしました。

 (注1)18世紀中葉にアラウンパヤー(Alaungpaya)王によってビルマが再統一され、コンバウン王朝が始まるが、ミンドンミン王は10代目、ティボー王は11代目にしてミャンマー最後の国王。ミンドンミンは在位が1853〜78年であり、開明的な国王であり、前代の国王の時に1852年の第2次英緬戦争で奪われた沿岸地方の回復に努めるもそれを果たせなかった。彼は1857年に新都マンダレーをつくった。(
http://www.myanmars.net/myanmar-history/king-mindon.htm
。9月29日アクセス)

 まず彼女は、宮廷で働いていたフランス人の機織り職人にベルベット生地を織らせました。
 2月15日の夜、義理の息子の強力な競争相手の所を刺客が襲い、ベルベット製の袋に彼らを詰め込んで殴って死に至らしめました。
 これは、貴族の血を流すことはタブーだったので、ベルベットに彼らの血を吸収させるとともに、彼らの叫び声が聞こえなくするためでした。
 こうしてティボーはめでたく王位に就いた(ただし、正式即位は1881年)のです(注2)。

 (以上、特に断っていない限り
http://www.guardian.co.uk/burma/story/0,,2179847,00.html
(9月28日アクセス。以下同じ)による。)

 (注2)在位1878〜85年。1885年の第3次英緬戦争で敗れ、1886年にミャンマーは英国の植民地となり、ティボーは王妃らと共にインドのヤダナルギリ(Yadanargiri)に移送され、そこで1916年に58歳で生涯を閉じる。

 大部分が仏教徒であり、穏和な印象のあるミャンマー人の残虐性が窺える逸話ですね。

3 サヤサンの叛乱

 1930〜32年のサヤサン(Saya San)の叛乱は、英領時代のミャンマー最大の叛乱です。
 この叛乱にも僧侶達が大きな役割を果たしました。
 叛乱者達は刀と槍だけで戦ったのですが、英軍兵力約10,000人が投入されてようやく鎮圧されます。
 この間、捕らえられて処刑された叛乱指導者の僧侶サヤサン(Saya SanまたはSayar San)を含め、ミャンマー人約10,000人が死亡しました。

 (以上、
http://www.atimes.com/atimes/Southeast_Asia/II28Ae03.html
http://www.myanmars.net/myanmar-history/sayasan.htm
による。)

 一見この叛乱は、日本統治下の朝鮮半島で1919年に起こり、朝鮮人7,509人が死亡した三・一事件と対比されるべきもののように思われるかもしれませんが、植民地化からわずか9年目に起こった三・一事件とは異なり、44年目も経ってから起こったサヤサンの叛乱は、英国によるミャンマー統治がいかに過酷なものであったかを示すものであると私は考えます。
 というのは、サヤサンの叛乱の原因には反英的要素や仏教的要素もあるものの、主たる原因は経済的なものであったからです。
 ミャンマーは英領インド帝国と一体化させられており、インド人が流入し、インド人高利貸しによってミャンマーの農民達は財産を奪われ、しかも植民地当局による重税に苦しんでいました。
 そこへ、経済不況によって米の価格が暴落し、農民達は深刻な生活苦に陥り、叛乱を起こしたのです。

 (以上、ミャンマーネット上掲、及び
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E3%83%BB%E4%B8%80%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E9%81%8B%E5%8B%95
による。)

太田述正コラム#2097(2007.10.1)
<ミャンマー動く(特別編)(続)>(2007.11.12公開)

1 始めに

 日本のブロッガーの次のような反応が目に付きました。

 「三千人の僧侶が<ミャンマーの>政治デモを先導したとの二ユースに驚いた。仏教は欲望を否定する故に、現世には関心がないものと考えていたからである。」
http://blogs.yahoo.co.jp/johnkim10053/25020443.html

 「ミャンマーの仏教は・・いわゆる小乗仏教・・であり、世俗から離れ、自ら覚りを得ることを至上としています。すなわち、僧侶は他人を救済することを目的としている大乗仏教とは立場が異なり、当然のことながら政治とは距離を置いています。それ故、デモに僧侶が参加することは理解できませんでした。」
http://plaza.rakuten.co.jp/totteiwakusyokyo/diary/200709280000/
(どちらも10月1日アクセス。以下同じ)

2 アショカ王に始まる新しい権力者像とミャンマー情勢

 しかし、インド亜大陸から中央アジアにかけての大国であったマウリア(Maurya)王朝のアショカ王(Ashoka。紀元前304〜 同232年。在位:紀元前273〜同232年)の事跡を知っておれば、ミャンマーで起こっていることは容易に理解することができます。
 アショカは、それまでの神の子孫としての権力者像に代えて、仏教の守護者としての権力者像を確立した人物です。
 それは、仏教を支援し、慈悲深い統治を行い、その見返りに仏教界(sangha)によって権力者として認知される、という権力者像です。
 (以上、
http://en.wikipedia.org/wiki/Ashoka
による。)

 この権力者像を、仏教国であるタイやミャンマーは受け継いでいるのです。
 以上を踏まえて現在のミャンマー情勢を一言で言い表せば、権力者たるタンシュウェ率いる軍事政権が仏教を支援してはきたものの慈悲深い統治をしてこなかった(注)ことに対し、仏教界が権力者としての認知の撤回をデモの形でつきつけたところ、怒ったタンシュウェらが仏教弾圧を開始した、ということになるでしょう。

 (注)象徴的なエピソードがある。軍事政権が1999年に、ヤンゴンのシュェダゴン寺院の4341個のダイヤがちりばめられた宝珠の53トンの金箔を張り替えたことだ。これは、認知された権力者以外には許されない行為なので、ミャンマーの大衆は、仏罰があたって、雷が落ちるか洪水が起こると息を飲んだところ、何も起こらなかった。将軍達は「俺たちの勝ちだ」と叫んだという。

 だからこそ、ミャンマーの消息通の多くは、軍事政権は自暴自棄になって破滅的行動をとったと評しているのです。

 (以上、
http://www.nytimes.com/2007/09/30/weekinreview/30mydans.html?pagewanted=print
による。)

3 参考:最近の仏教と政治の関わりの事例

 1963年に当時の南ベトナムのサイゴンで僧侶が静かに瞑想しつつ焼身自殺を遂げ、ベトナム戦争に抗議したことは覚えておられる方も多いでしょう。
 また、やはりベトナム人の僧侶であったナットハン(Thich Nhat Hanh)は、米国におけるベトナム戦争反対運動に大きな影響を及ぼし、キング(Martin Luther King)牧師を説得して戦争反対へと転じさせました。
 カンボジャではクメール・ルージュが僧侶の殆ど全員の6万人も虐殺しましたが、僧侶のゴサナンダ(Maha Ghosananda)は、自分の家族全員をクメール・ルージュに殺されたにもかかわらず、国の再建にあたってクメール・ルージュをのけ者にしないように主張しました。
 1987年9月にはチベットで僧侶達が反中共運動の先頭に立ちましたが、当時チベットの統治に当たっていた胡錦涛は戒厳令を敷いてこれに対処しました。
 
 (以上、
http://www.guardian.co.uk/comment/story/0,,2180652,00.html
による。)

 以上は、仏教がどちらかと言えば政治とプラスの関わり方をした事例ですが、マイナスの関わり方をしたスリランカの事例もあります。
 ここでは、仏教が多数派で仏教徒のシンハリ人(Singhalese)と少数派でヒンズー教徒のタミル人(Tamils)との内戦を激化させる要因となっているのです。
 しかし、総じて言えば、無神論の宗教であって寛容を旨とする仏教は、キリスト教やイスラム教よりは、はるかに政治にプラスの影響を及ぼして来たと言えるでしょう。

 (以上、
http://www.latimes.com/news/opinion/la-oe-buruma29sep29,0,3100047,print.story?coll=la-opinion-rightrail
(9月30日アクセス)による。)