ミャンマー動く(続)

 (しばらく、過去の非公開コラムの公開をやらなかったので、一挙に3篇を同時アップします。)

太田述正コラム#2081(2007.9.23)
<ミャンマー動く(続)(その1)>(2007.11.3公開)

1 始めに

 昨日、ミャンマーにおける反政府活動は、新たな次元に達したことが判明しました。
 僧侶達とアウンサン・スーチ女史との連携の兆しが現れたのです。

2 連携

 (1)感動の瞬間

 ヤンゴンで22日、雨の中を反政府デモに参加した少なく見積もっても約2,000人の僧侶達のうち約1,000人が、まず、ミャンマーで最も尊崇されているシュウェダゴン寺院(Shwedagon Pagoda)の前に集まった後、軟禁中の民主化運動指導者アウンサン・スーチー女史の自宅に向かいました。
 思えばこの寺院の前で、1988年8月26日、女史は民主化運動の指導者に推戴されたのでした。
 ミャンマー軍部は、1990年に総選挙を実施しますが、その結果80%もの得票をとったスーチー女史の民主化同盟に政権を委譲することを拒み、それ以降の18年間のうち12年近く女史を自宅軟禁状態にとどめてきました。
 大学通りという名前の女史の自宅への道は、17日から通行禁止措置がとられていたのですが、衛視達が僧侶達の通行を認めたために、僧侶達は自宅前を訪れることができ、屋内から出てきた同氏と対面しました。
 女史が大勢の人の前に姿を見せたのは、2003年5月の拘束以来初めてであり、僧侶達が、反軍事政権の象徴である女史と連携する兆しが現れたことで、反政府の機運が一気に広まる可能性が出てきたのです。
 女史は涙を流しながら門の近くまで現れて僧侶らに手を合わせ、会話はなかったけれど、僧侶達は約15分にわたって同氏のために祈りを捧げたのです。

 (以上、
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/09/18/AR2007091802082
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/09/22/AR2007092200207.html?hpid=moreheadlines
(どちらも9月22日アクセス)による)、及び
http://www.asahi.com/international/update/0923/TKY200709220243.html
http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/7008217.stm
(どちらも9月23日アクセス)による。)

 (2)その翌日

 翌23日の日曜日には、約10,000人の僧侶達がデモを行い、このデモを守るように約10,000の一般市民が人垣をつくりました。
 これは、1988年に僧侶達が一般市民と一緒にデモをしたところ、軍部の弾圧によって3,000人もの死者が出たという前例が繰り返されることを僧侶達が懼れているから、と考えられています。
 僧侶達は、スーチー女史への支持を叫びながら行進し、シュウェダゴン寺院の前で1人の僧侶が女史の解放と国民的和解を求める演説をしました。
 軍部は、1990年にマンダレーで、デモに参加した数百人の僧侶を逮捕したり殴打したり、更に所属僧院を閉鎖したりしたのですが、今回はこれまでのところ、全く手出しをしていません。

 (以上、
http://www.nytimes.com/aponline/world/AP-Myanmar.html?ref=world&pagewanted=print(9月23日アクセス)による。)

 軍部が頭を抱えているらしいことは、24日に開催を予定していた20人の地域軍司令官達による四半期ごとの会議を取りやめたことからも窺えます(
http://www.ft.com/cms/s/0/cabb2576-68a1-11dc-b475-0000779fd2ac.html
。9月23日アクセス)。

3 僧侶達とスーチー女史

 (1)僧侶達

 僧侶達はミャンマーに50万人近くいると見られています。
 軍部の支配下で経済が低迷を始めてからは、僧侶達は社会的支援活動に携わるようになり、エイズの診療所、孤児院、学校等の経営を行うようになっています。
 経済状況が悪化するにつれ、貧しい家庭の子弟で僧侶になる者が増えています。
 また、僧侶達は喜捨を受けて生活をしているために、ミャンマーの状況が一番良く分かっています。
 毎日生活するために必要な喜捨を集めるためにかつては4〜5軒の家を回ればよかったのに、今では30〜35軒回らなければならないというのです。
 (以上、FT上掲による。)

 (2)スーチー女史

 次はスーチー女史についてです。

(続く)

太田述正コラム#2083(2007.9.24)
<ミャンマー動く(続)(その2)>(2007.11.3公開)

 ミャンマーにはビルマ族のほか、自治ないし独立を求める少数民族が沢山住んでおり、両者がどう折り合いを付けるかが、一貫してミャンマー最大の課題であると言えます。
 これに加えて1989年まで共産主義叛乱分子との戦いがあり、またごく最近まで麻薬栽培・密輸に携わる民兵組織との戦いがありました。

 スーチー女史の父親のアウンサン(Aung San。1915〜47年)はミャンマー独立の父とも言うべき人物ですが、独立後、少数民族を訪ねて回り、彼らそれぞれに対して文化的自治を認め、民族平等を約束し、共生してくれるように説得したものの、結局カレン族(Karen)の説得には失敗し、シャン族(Shan)、チン族(Chin)、カチン族(Kachin)も条件付で説得に応じるにとどまりました。
 そのアウンサンは、1947年に政敵によって暗殺されてしまいます。
 その結果、これら少数民族とミャンマー軍との戦いが、世界最長の内戦として続くことになるのです。

 スーチー女史は、父の死後、高級公務員として活躍した母親の薫陶を受けつつ人となります。
 1960年、15歳の時に女史は、駐インド大使となった母に連れられてインドに赴き、現地の大学で学び、ガンジーの思想に傾倒します。
 1964年にはオックスフォード大学に留学し、持ち前の人柄で皆を魅了しつつ、3年後に卒業します。
 女史は、既にミャンマーはネウィン(Ne Win。1910?〜2002年)将軍の独裁体制の下にあったので帰国しないこととし、1969年、ミャンマー出身のウタント(U Thant)が事務総長をしていた国連事務局に奉職します。
 1972年に女史は、チベット学者のイギリス人と結婚します。
 その後女史は、2人の男の子を産み育てるとともに、1985年にはロンドン大学からミャンマー文学でPH.Dを授与されます。

 その女史に決定的な転機が訪れたのは1988年です。
 ネウィンの26年間にわたる社会主義的独裁によってミャンマーが世界の最貧国の一つに転落していたところへ、1987年の9月に政府が紙幣のほとんどを無効化したため、タンス預金が無価値になったことに怒った人々がデモを始め、それが次第に民主化運動に発展していき、1988年7月にネウィンが引退を声明したにもかかわらず、8月8日にはミャンマー全体が騒擾状態に陥ったのです(
http://www.ft.com/cms/s/0/cabb2576-68a1-11dc-b475-0000779fd2ac.html
。9月23日アクセス)。
 病に斃れた母の看病のためにミャンマーに戻っていた女史は、アウンサン将軍の再来として、急速に民主化運動の象徴へと祭り上げられていくのです。
 事態は、軍部による大弾圧と全権掌握、そして国家法秩序回復評議会(SLORC。1997年にに国家平和発展評議会(SPDC)と改称)なる軍事政権の樹立、スーチー女史を書記長とする政党・国家民主化同盟(NLD)・・綱領に少数民族への法の下での自治の付与を謳う・・の結成へと動き、1990年の総選挙における民主化同盟の大勝利、その軍事政権による無効化、1991年の女史へのノーベル平和賞の授与、と続き、女史は1989年以降断続的に軟禁状態に置かれつつ、現在に至っているわけです。
 この間、女史は一貫して敬虔な仏教徒であり続けるとともに、非暴力主義を訴えてきました。
 女史は、夫が癌であることが1997年に分かっても、訪英すれば2度と帰国できないために夫と会えずじまいで、1999年に夫と死別しています。
 
 (以上、特に断っていない限り
http://www.atimes.com/atimes/Southeast_Asia/II01Ae02.html
(9月1日アクセス)、
http://en.wikipedia.org/wiki/Aung_San_Suu_Kyi
http://www.e-myanmar.jp/kihon/history_1.htm
(どちらも9月24日アクセス)、及び
http://www.nytimes.com/2006/09/29/opinion/29myint-u.html?n=Top/News/World/Countries%20and%20Territories/Myanmar&pagewanted=print
(2006年9月30日アクセス)による。)

4 情勢分析

 (1)軍事政権の論理

 ネウィン独裁政権にせよ、現在の軍事政権にせよ、彼らなりの大義名分は、軍部支配の終焉は、少数民族の独立によるミャンマー・・現在人口5,500万人・・の崩壊をもたらす、というものです。
 これら少数民族の武装勢力との内戦こそ、1980年代末から1990年代初頭にかけて、休戦協定が次々に締結されたことによって収束に向かっているものの、上記事情に基本的な変化がない、と現在の軍事政権は考えているのです。
 その軍事政権は、1989年に国名をビルマからミャンマーに、ラングーンをヤンゴンに改め、1990年代初頭から、従来の社会主義的経済運営を止め、外国からの投資と観光客を呼び込むねらいで経済開放政策をとっています。
 軍事政権は、1997年にASEAN加盟も果たしました。
 しかし、軍部内で反対意見が根強くあるため経済開放政策が不十分しか実施できていない上、NLD弾圧を軍事政権に翻意させるべく1990年から欧米諸国によって経済制裁が行われているため、ミャンマーは、中共で起きたような経済的離陸を果たせないでいます。

 (以上、NYタイムス上掲による。)

 (2)諸外国の動き

 ここで、諸外国の動きを見てみましょう。

(続く)

太田述正コラム#2085(2007.9.25)
<ミャンマー動く(続)(その3)>(2007.11.3公開)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
<その後の進展>

 スーチー女史と僧侶達のデモ隊との邂逅という出来事のあった翌日の23日の日曜日、女史の家の前に通じる道は、従来通り鉄条網で遮断されいた上、放水車4台、何台もの警察の車両、そして何十人もの盾を持った警官達で封鎖され、こちらに向かった約200人の僧侶達のデモ達は、進入を阻まれてしまいました(
http://www.guardian.co.uk/burma/story/0,,2175700,00.html
。9月24日アクセス)。

 更に翌日の24日、ヤンゴンでのデモは、一般市民も加わり、10万人規模に膨れあがりました。
 交通にも影響が出たため、店舗や学校の中には休む所も出てきました。
 何名もの有名な芸人達もデモに加わりました。
 その中には、ミャンマーで一番有名なコメディアンと映画スターも含まれていました。 僧侶達に喜捨をする国会議員も何人か現れました。
 マンダレーでは、20,000人のデモが行われましたし、北西部の石油の町のシットウェ(Sittwe)や仏教のセンターであるパコック(Pakokku)でもデモがありました。

 これに対し、軍部がついに脅しをかけ始めています。
 宗教相のトゥーラ・ミンマウン(Thura Myint Maung)准将が国営ラジオで、抗議行動は「この国の平和・安定・前進を望まぬ破壊的分子」によって行われているとし、「宗教上の教えが彼らを押しとどめることができないのであれば、僧侶達の抗議行進に対してわれわれは法律に則って行動をとることになるだろう」と述べました。
 更に同相は、ミャンマーの仏教界で最も権威のある高僧らと面会し、同趣旨のことを伝えました。ただしその際同相は、「国民は(犠牲者が出た)1988年の再来を望んでいない」とも述べ、現段階では、僧侶に対し直接武力を行使する考えがないことも示しています。

 (以上、
http://www.guardian.co.uk/burma/story/0,,2176570,00.html
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20070924it12.htm
(どちらも9月25日アクセス)による。)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 先月来、米国で最もミャンマーの軍事政府批判活動を行ってきたのはブッシュ大統領のローラ(Laura Bush)夫人です。
 23日には、ライス国務長官が、民主化運動へのシンパシーと軍事政府への反感を露わにしつつ、ミャンマー情勢を注意深く見守っている旨発言しました。
 米国はかねてよりミャンマー産品の全面輸入禁止措置をとってきていますが、ブッシュ大統領は25日の国連総会での演説の中で、軍事政権の指導者達の金融取引や彼らやその家族に対するビザ発給禁止といった追加的経済制裁を発表するとともに、他国にもミャンマーでの抗議活動への支援を呼びかける予定です。

 (以上、
http://www.nytimes.com/2007/09/06/world/asia/06myanmar.html?pagewanted=print
http://www.nytimes.com/2007/09/23/world/asia/23cnd-myanmar.html?_r=1&hp=&oref=slogin&pagewanted=print
(どちらも9月24日アクセス)、
http://www.nytimes.com/2007/09/25/world/asia/25myanmar.html?ref=world&pagewanted=print
(9月25日アクセス)による。)


 しかし、一番ミャンマーの軍事政府への影響力を持っているのは隣国の中共です。
 1989年以来、中共はミャンマー軍に20億米ドル相当の武器を供給するとともに、ミャンマーへの経済援助でインフラやダムをつくってきました。
 また、ミャンマーの石油や天然ガスへの投資も行ってきました。
 そして、両国間の貿易は1999年から2005年の間に12億米ドルへと2倍に増えました。
 その中共は、米英を中心とする国連での対ミャンマーの動きを邪魔し、今年1月にも国連事務総長により積極的にミャンマーに取り組む権限を与える安保理決議にロシアとともに拒否権を発動しました。
 その後中共は、インドネシア・フィリピン・マレーシア3国によるスーチー女史解放に向けての仲介努力の足を引っ張り、ASEAN諸国の国会議員達から批判を受けました。
 だからといって、ことここに至って、中共はなお漫然と軍事政権への支援を続けるわけにはいきません。
 北京オリンピックのボイコットの動きもあり、先般もそれまでのスーダンのダルフール(Darfur)問題への国連関与強化反対の姿勢を転換させたばかりです。
 軍事政権が、武力で僧侶達のデモを弾圧するようなことがあれば、天安門事件の前科のある中共が、軍事政権が同じことをするのに手を貸した、と国際世論が受け止めることが避けられないだけに、中共は何とかそんなことにならないように軍事政権に働きかけています。
 つい先だって、中共の外務省高官(Tang Jiaxuan)は、北京を訪問したミャンマーのニヤンウィン(Nyan Win)外相に対し、「中共はミャンマーがミャンマーにとって適切な民主的プロセスを推進することを心から願っている」と伝えています。

 (以上、
http://www.csmonitor.com/2007/0924/p01s02-woap.htm
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/story/0,,2176620,00.html
(どちらも9月24日アクセス)、及び
http://www.nytimes.com/2007/09/25/world/asia/25myanmar.html?ref=world&pagewanted=print
上掲による。)

 中共に次いで大きな影響力を持っているのは、やはりミャンマーの隣国であるインドです。
 インドも、ミャンマーとの経済関係と、ミャンマーとの国境地方における叛乱分子掃討のためのミャンマーとの協力関係を重視して、ミャンマーの人権問題や民主化の問題には目をつぶってきた経緯があります。
 そのインドも、国際世論の動向いかんによっては、姿勢を転換する可能性があるのです。

 (以上、
http://commentisfree.guardian.co.uk/simon_tisdall/2007/09/cornering_the_junta.html
(9月25日アクセス)による。)

(一応完)