太田述正コラム#2125(2007.10.15)
<まるでダメなイタリア(その2)>

(2)イタリア人の創出の夢が破れるまで

 イタリア人の創出に向けてとられた方策は、ありとあらゆる相手を探し出しては戦いをふっかけることだった。血の洗礼が国民をつくりあげる、というのだ。
 これは統一イタリア成立後のイタリアの支配者達の間での一貫したコンセンサスだった。
 1880年代から90年代にかけての自由主義者達、例えばクリスピ(Francesco Crispi。1819〜1901年。2度首相を務める)だって、20世紀になってからの独裁者のムッソリーニ(Benito Mussolini。1883〜1945年)だってそう思いこんでいた。
 1866年にはイタリアはベネチアとベネト(Veneto)を獲得するために、オーストリアに戦いを挑んだ。
 オーストリアはこの両都市の割譲に応じる意向を表明したのに、それでもイタリアは戦いの火ぶたを切ったのだ。
 その結果、イタリアは小規模なオーストリア陸軍部隊にカストーザ(Custoza)で敗れ、小規模なオーストリア海軍部隊にリッサ(Lissa)で敗れるという大恥をかいた。
 これは、その後何度となく繰り返されることの前例となった。
 ドイツの宰相ビスマルク(Otto von Bismarck。1815〜98年。宰相:1871〜90年)は、「イタリアは食欲は旺盛だが歯は弱い」と嘲ったものだ。
 イタリア人だって戦えるのだということを証明すべく、彼らは何度も何度も戦い、その都度敗れ続けたのだ。
 エチオピア侵略戦争では1896年にアドゥア(Adua)で敗れ、ギリシャにも(コルフ(Corfu)島は奪取できたものの)敗れ、第一次世界大戦では1917年にドイツ・オーストリア連合軍にカポレット(Caporetto)で総崩れになり、第二次世界大戦ではイタリア海軍は連合国の艦艇を1隻も撃破できず、リビアで25万人のイタリア陸軍が3万人の英軍に潰走させられた。
 しかも、リビア侵略とエチオピア侵略の際には無差別虐殺を行い、毒ガスも使っている。毒ガスを使ったという事実をイタリア政府が認めたのは1996年になってからだ。
 そもそも、国論をまとめるべきイタリア議会もひどいものだった。
 イタリア議会は、不安定、腐敗、間歇的な暴力、軽薄といった言葉によって特徴づけられる。議員の半分が欠席し、定足数が不足して投票ができない、といったことがめずらしくなかった。また、ムッソリーニのファシスト体制の構築は、イタリアの上下両院の承認の下に行われたのであって、議会制自由主義は議会自らによって葬り去られたのだ。
 ムッソリーニは古代ローマの皇帝になぞらえられ、外国風の言い回しやラテン語に由来しない言葉の使用を禁じ、ローマの栄光の復活を目指した。
 イタリアのファシスト体制の特徴はむき出しの暴力性にある。
 だからファシスト政府は、自分達と似通っていたところのシチリアのマフィアを嫌い、マフィアの幹部を捕らえ、その爪を全部剥がし、性器をつぶすことによってマフィアを根絶しようとした。それでもマフィアはしぶとく生き残った。
 23年間続いた、このイタリアのファシスト体制は、文字通りイタリア統一の論理的帰結であったと言えよう。
 このファシスト体制が、第二次世界大戦の結果終焉を迎え、ここにイタリアは、戦争によってイタリア人を創出するすべを完全に失うのだ。
 だから、戦後のイタリアでは、反ナショナリズム政党が幅をきかせた。
 キリスト教民主党はカトリック教会に忠誠を誓い、共産党はソ連に忠誠を誓い、1990年代半ばにイタリアの4番目に大きい政党であった北方同盟(Northern League)は、南部はアフリカに属すがゆえに、イタリア統一は実はアフリカの分割に他ならない愚行だったと主張した、というわけだ。
 この戦後イタリアの反ナショナリズムは、国家的共通価値や公的利益の観念すら事実上否定してしまった。
 こうして戦後イタリアでは、国家は腐敗した政党幹部が政党の子分達に恩顧を与えるための手段に堕してしまい、政治家達はマフィアと結びつき、財政赤字は累積を続けることになった。

3 感想

 日本の明治維新以降の歴史は文明開化の理念の現実化の歴史であったのに対し、イタリアの統一以降の歴史は何と矮小で野蛮なことでしょうか。
 それにしても、早く私の文明開化史観に基づく現代日本史を書いてくれる人が現れて欲しいものです。
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太田述正コラム#2126(2007.10.15)
<防衛省不祥事>

 (本篇は機微にわたるので、当分の間、完全に非公開にします。)