太田述正コラム#1696(2007.3.19)
<日本人のアングロサクソン論(続)(その3)>(2007.10.4公開)

 渡部氏は、「昔は特に常識的だったというわけではな<い>・・イギリス<であったところ、そのイギリスが>常識・・common sense・・誰でも持っているような判断力・・の国といわれるように」し(113頁)たのはウォルポールであり、「一般的な歴史の見方のみだと、華やかなことが何もないので見損ねる<が、>・・イギリス史の中でも重要な地殻変動というべきもの<を>起こ<した>」(126頁)傑出した政治家であったと主張しています。
 具体的には渡部氏は、「日々のことは日々に捌いてゆけばいいので、何が正義かということはうるさく議論することはない。毎日、事務処理をしていて、非常に事務の捌き方がスムーズだったものだから、戦争も起こらず金利も低く安定していたし、インフレもなかった、ということだったろうと思う」(134頁)とし、ウォルポールは、「<もともと>貴族ではな」かった(116頁)上「首相をやめる二日前<まで>貴族の栄誉を受けようとしなかった」(129頁)ことから下院の多数党を背景として特定の大臣が内閣を統括するという意味で「初めて首相といわれるものにな」り(116頁)、かつ「あまりプロの歴史家も強調しないことであるが、復讐心のあまりない人だった」(126頁)ことから「反対党<の>私有財産と命を保証した」(129頁)結果、「トーリー(王党派)とウィッグ(貴族党)という・・二大政党制へと自然に移行し」(130頁)、「内閣を組織したときに、・・方針という<も>のがな<く、>要するに、戦争をしなければいいだろうということで、条約は結ばない、他国の戦争には巻き込まれない、とこれだけを、その後21年間確実に守った」(117〜118頁)結果、「イギリス<は>世界一の金持ちにな<り>、フランスに対して優越感を持てるようになった」(120頁)というのです。

 しかし、これまで私が述べてきたことから、最後の点は、渡部氏の勝手な思いこみに過ぎない、ということはご理解いただけると思います。
 しかも、その他の点も、おおむね同様であろうことは、「一般的な歴史の見方のみだと・・見損ねる」とか、「思う」とか、「あまりプロの歴史家も強調しないことであるが」とかいった表現を乱発されていることから推測できます。少なくとも、これら表現が用いられた箇所について、私がこれまで読んできた英文の典拠で渡部氏のようなことを記しているものに遭遇したことはありません(注6)。
 
 (注6)もちろん、ウォルポールに関する渡部氏の記述中には、上には掲げなかったが、(田沼意次と比較しつつ、)ウォルポールの「腐敗」を問題視すべきではないといった、1987年当時としては斬新で鋭い指摘もあることは認めなければならない。今年に入ってからの英国人によるウォルポールの同趣旨の論評(
http://www.socialaffairsunit.org.uk/blog/archives/001380.php
。3月19日アクセス)参照。

 このあたりで、渡部氏のアングロサクソン論の根本的な問題点を挙げておきましょう。
 第一に、氏が本来は言語学者であるにもかかわらず、平気で「アングロ・ノルマン語」を「フランス語」とぼかした記述を行ったり、今度はcommon senseを「王様の首を斬ったり<といった>ラディカラルなこと」をしないことという意味で用いる(113頁)という誤りを犯し(注7)たりしていることです。

 (注7)ラディカルな米独立革命の理論的煽動書となったトマス・ペイン(Thomas Paine)の1776年の小冊子のタイトルがcommon sense であったことを思い出すだけでも、渡部氏の言葉に対する感覚の杜撰さは明らかだろう。そもそも、最終的にラディカルにも1649年に「王様の首を斬」ることにつながった1628年の権利の請願(Petition of Rights)の提出もまた、当時のイギリス人のcommon law 感覚、すなわちcommon senseに根ざすものだった(コラム#90)。

 第二に、日本史について論じる時と同じく、イギリス史を論じる時に、特定の人物の役割を過大視することは禁物であることを氏は分かっていないことです。
 何度も言及している英国の標準歴史書では、ウォルポールについて本文中には、彼が事実上最初の首相(1721〜1742年)になったという記述は全く出てこず、わずかに巻末の英国歴代首相一覧の最初に彼の名前が掲げられているにとどまります。
 それは、「首相」は当時はまだ議会対策、とりわけ下院対策だけをやっていればよかったわけではなく、国王・・ウォルポールの場合で言えばジョージ1世とジョージ2世・・の信任を得ることの方がより重要であったからです。内閣の一体性もまだ確立していませんでした。実際、ウォルポールが引退した1742年、ほとんどの重要閣僚がそのまま留任しています。
 二大政党制の確立にウォルポールが貢献したとする渡部氏の指摘にも首をひねらざるを得ません。彼の時代にはトーリー党の地盤沈下は著しく、取るに足らない存在になってしまったことから、その後、ホイッグ党の政権独占が続いたとしても不思議ではなかったからです。
 とにかく、ウォルポールは英国憲政史の発展にはほとんど寄与していない、というのが英国での一貫した「常識」なのです。
 (以上、特に断っていない限り
http://www.bartleby.com/65/wa/WalpoleR.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Walpole
(どちらも3月17日アクセス)による。)

 第三に、これは渡部氏のしかもアングロサクソン論に限った話ではなく、日本の評論家のあらゆる論考に一般的に当てはまることですが、氏が一切典拠を示していないことです。
 これがどうして問題であるかは、きちんとした反論を行うことができないこと、等々を説明するまでもなくお分かりのことでしょう。

 第四に、これも渡部氏のしかもアングロサクソン論に限った話ではなく、日本の評論家一般にしばしば見られることですが、一つの本、一つの論考の中で、互いに相矛盾すること無神経にも主張されていることです。
 渡部氏は、「平和主義の弊害」を力説し、「クエーカーの平和至上主義が第一次大戦を招来」し、「チェンバレンの国際平和主義が第二次世界大戦に走らせた」と力説しています(204、205、209頁)。ところが、その一方で氏は、ウォールポールの孤立主義、非戦主義については、当時の英国に経済的繁栄をもらたしたとして、手放しで礼賛しています(118頁)。
 しかし、これでは著しく一貫性に欠けると言われても仕方がないでしょう。
 少なくとも渡部氏は、平和主義の弊害がどうしてウォルポールの時代には生じなかったのか、その理由を説明すべきでした。
 私には、ウォルポールの引退直後の1745年に、フランスに亡命していた(ジェームス2世の孫の)ボニー・プリンス・チャーリー(Bonnie Prince Charlie)のスコットランドを根城にした叛乱によってすんでのところでハノーバー朝が倒されそうになった(コラム#181、1136)のは、ウォルポールが軍事力、就中陸軍力の整備を怠ったことも原因の一つだと思えてならないのです。

(続く)