太田述正コラム#2099(2007.10.2)
<ミャンマー動く(特別編)(続々)>

1 始めに

 ミャンマー情勢が緊迫化して以来、2005年に上梓された米国人女性のラルキン(EMMA LARKIN。仮名)の’Finding George Orwell in Burma’のことが気になっています。
 どういうことか、ご説明しましょう。

2 オーウェルとミャンマー

 ラルキンは、ミャンマーの人々みんなが知っているというジョークを紹介しています。
 オーウェル(George Orwell。1903〜50年)はミャンマーに関する三部作、『ビルマの日々(Burmese Days)』(1934年)、『動物農場(Animal Farm)』(1945年)、そして『1984年』(1949年)を書いた、というのです。
 一番目は独立前のミャンマーを描いた小説であり、二番目と三番目は独立後のミャンマーを予見したかのような小説だ、というわけです。
 『1984年』は現在のミャンマーでは発禁になっているのですが、ラルキンは、「ミャンマーでは誰もこの本を読む必要がない。なぜならわれわれは日常的に1984年の世界の中に住んでいるのだから」という声や、『動物農場』はまことにミャンマー的な本だ・・。なぜなら豚や犬が統治している国の話だからだ」という声を記しています。
 
 オーウェルはイートン校を卒業するとすぐミャンマーに渡り、英統治機構の警察官として5年間を現地で過ごした後、1927年に帰国し、以後文筆生活に入ります。
 しかし、オーウェルは決してミャンマーのことを忘れず、ミャンマーを題材にして、小説(処女作)『ビルマの日々』や、彼の最も有名な随筆集である『像を撃つ(Shooting an Elephant)』等を書いたほか、結核に罹って死の床にあった時に、『喫煙室物語(A Smoking Room Story)』の梗概を残しています。

 これらの著作の中で、オーウェルは、英国の植民地統治の過酷さを描く一方で、ミャンマーの人々の絶望的なまでの素朴さと計算ずくの反道徳性についても容赦なく描いています。
 オーウェルがいた頃のミャンマーは、英領インド帝国内で最も暴力的で、盗賊団の跳梁、乱暴狼藉、そして殺人が日常茶飯事の地域でしたが、それは同時に豊かな地域でもありました。
 面白いのは、当時のミャンマーの英国人達・・英領インド帝国の英国人達と言い換えてもよろしい・・は、誰しもこのような過酷な植民地統治において彼らが果たしていた役割を恥じ、自己嫌悪感を抱いていたというのです。オーウェルもまたその例外ではありませんでした。
 しかし、そのオーウェルが「東洋人の連中には向かっ腹が立つ」と言っては、平気で召使いやクーリー達を杖で殴っていたというのですから呆れますね。

 ですから、オーウェルはミャンマーで抑圧された人々への愛に目覚め、爾後その執筆活動を通じて抑圧的体制への警鐘を鳴らし続けた、というラルキンの主張に疑問を投げかけ、スペイン内戦やナチスの台頭がオーウェルに与えた影響の方が大きいとする書評子もいるのです。

 とまれ、豊かであったはずのミャンマーが、今では世界でも最たる後進国の一つになってしまっています。
 ラルキンは、「英国はわれわれの血を吸ったが、ミャンマーの将軍達はわれわれの骨までしゃぶっている」という声を記しています。
 いずれにせよ、ミャンマーを60年以上統治した英国が、ミャンマーの現在についての責任を免れることはできないでしょう。
 ラルキンは、英国はミャンマー社会における伝統的な権威の源泉をすべて破壊してしまったため、英国人が去った時にミャンマーには混沌が訪れ、この真空状態を軍部が充たしたのである、と指摘しています。
 しかし、英領インド帝国の大部分を継承したインドではそうはならなかったところを見ると、これは説明になっていません。
 私自身は、ミャンマー軍を創建した日本もまた、一定の責任は免れないのではないか、と考えています。

3 ミャンマーの人々に残された尊厳

 『1984年』の主人公は、当局に対する反抗として、役にも立たないささやかな贅沢品であるところの、美しく磨かれた文鎮を購入します。
 ラルキンは、極貧のミャンマーの人々が、紅茶にクリームと砂糖を入れて英国風に飲むことでかろうじて人間の尊厳を維持している、と記しています。
 ここで、次の挿話を思い出しました。
 軟禁中アウンサン・スーチーに何年か前に、面会した英国人は、彼女のお付きに事前に何をおみやげに持って行ったらよいかを聞いたところ、消耗品(supplies)と読み物がよいと言われ、アムネスティーの年鑑やネルソンマンデラの回顧録がいいかなと思ったところ、ヴォーグかマリクレールの最近号の何冊かと顔面クリーム何箱かをご希望であると知り、なるほどと思ったというのです。
 軟禁されていても、平常心と人間の尊厳の維持に努めているのだな、と。
 しかし、ミャンマーの人々が尊厳を維持する手段が英国やフランスのものばかり、というところに痛ましい思いを禁じ得ないのは私だけでしょうか。

 (以上、
http://findarticles.com/p/articles/mi_qa3647/is_200508/ai_n14901574/print
http://72.3.142.32/reviews/05/rev05908.html
http://sleepinginthemountains.blogspot.com/2006/02/book-review-finding-george-orwell-in_01.html
(いずれも10月2日アクセス)による。また、アウンサン・スーチー女史の挿話は
http://news.bbc.co.uk/2/hi/americas/7015465.stm
(9月28日アクセス)による。)
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 コラム#2100(2007.10.2)「朝鮮戦争をめぐって(その6)」のさわりの部分をご紹介しておきます。
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 ・・孫文は、1920年にソ連の支援を仰ぐこととし、ソ連の指示に従って、国民党をソ連共産党と瓜二つの形態にし、爾後国民党はこの形態を台湾に逃げ込んでからも1990年代まで維持することになります。
 また、やはりソ連の指示に従って、創設されてから日が浅かった中国共産党(以後「共産党」と呼ぶ)とも協力関係を結び(第一次国共合作:1924〜27)、共産党員は党員のまま国民党員になります。
 この頃孫文が盛んに唱えていたのが「連ソ容共」です。
 この国民党が1924年に採用したのが孫文の、民族主義・・民権主義・・民生主義・・からなる三民主義・・です。
 民族主義は危険なナショナリズムの旗を掲げたということですし、民権主義とはその実、一党独裁下の民主集中制を意味していましたし、民生主義に至っては、孫文自身、中身をつめずに終わってしまっています。
 この時点では国民党は、ファシスト的要素と共産主義的要素が未分化な民主主義独裁政党であったと言えるでしょう。
 ・・
 1925年に孫文が病死すると・・1926年<に>・・北伐・・を開始します。
 ・・1927年、この北伐の過程で蒋介石は上海で、そこに党本部を置いていた共産党に対し血の弾圧を行<い>・・ます。
 ここに国民党は、共産主義的要素が排除されたファシスト政党となり、軍閥との内戦に加えて、共産主義政党・・たる共産党とも内戦を行いつつ支那統一を目指すこととなり、それに第三勢力たる日本がからむ形で支那の歴史が進行していくことになるのです。
 蒋介石の国民党がファシスト政党であった証拠として、国民党は亡くなった孫文を神格化し、一党独裁制/民主集中制を引き続き堅持するとともに、資本家に対する優遇政策をとり、かつ1928年から始まったドイツとの軍事協力を、1933年のナチスのドイツ権力掌握以降も、1938年にナチスドイツ側から解消されるまで継続したことが挙げられます・・。 ・・
 しかし蒋介石は、結党の経緯もあって容共勢力を抱えていた国民党からこれらの勢力のを完全にパージすることに成功せず、このこともあって共産党との対決姿勢に一貫性を欠き、1936年の西安事件(・・コラム#178、187、234、256)を契機として第二次国共合作(1937〜45年)が成立したために共産党を壊滅させる機会は永久に失われ、日本の敗戦後の国共内戦に敗れ、台湾に逃走することになるのです。
 私が国民党を容共ファシスト政党と呼ぶゆえんがお分かりいただけたでしょうか。
 この国民党は極めて腐敗したファシスト政党でもあったことを付言しておきます・・。
 ・・
 それでは、どうして国民党政権との戦争が日本の自衛戦争であったのでしょうか。

(続く)