太田述正コラム#2097(2007.10.1)
<ミャンマー動く(特別編)(続)>

1 始めに

 日本のブロッガーの次のような反応が目に付きました。

 「三千人の僧侶が<ミャンマーの>政治デモを先導したとの二ユースに驚いた。仏教は欲望を否定する故に、現世には関心がないものと考えていたからである。」
http://blogs.yahoo.co.jp/johnkim10053/25020443.html

 「ミャンマーの仏教は・・いわゆる小乗仏教・・であり、世俗から離れ、自ら覚りを得ることを至上としています。すなわち、僧侶は他人を救済することを目的としている大乗仏教とは立場が異なり、当然のことながら政治とは距離を置いています。それ故、デモに僧侶が参加することは理解できませんでした。」
http://plaza.rakuten.co.jp/totteiwakusyokyo/diary/200709280000/
(どちらも10月1日アクセス。以下同じ)

2 アショカ王に始まる新しい権力者像とミャンマー情勢

 しかし、インド亜大陸から中央アジアにかけての大国であったマウリア(Maurya)王朝のアショカ王(Ashoka。紀元前304〜 同232年。在位:紀元前273〜同232年)の事跡を知っておれば、ミャンマーで起こっていることは容易に理解することができます。
 アショカは、それまでの神の子孫としての権力者像に代えて、仏教の守護者としての権力者像を確立した人物です。
 それは、仏教を支援し、慈悲深い統治を行い、その見返りに仏教界(sangha)によって権力者として認知される、という権力者像です。
 (以上、
http://en.wikipedia.org/wiki/Ashoka
による。)

 この権力者像を、仏教国であるタイやミャンマーは受け継いでいるのです。
 以上を踏まえて現在のミャンマー情勢を一言で言い表せば、権力者たるタンシュウェ率いる軍事政権が仏教を支援してはきたものの慈悲深い統治をしてこなかった(注)ことに対し、仏教界が権力者としての認知の撤回をデモの形でつきつけたところ、怒ったタンシュウェらが仏教弾圧を開始した、ということになるでしょう。


 (注)象徴的なエピソードがある。軍事政権が1999年に、ヤンゴンのシュェダゴン寺院の4341個のダイヤがちりばめられた宝珠の53トンの金箔を張り替えたことだ。これは、認知された権力者以外には許されない行為なので、ミャンマーの大衆は、仏罰があたって、雷が落ちるか洪水が起こると息を飲んだところ、何も起こらなかった。将軍達は「俺たちの勝ちだ」と叫んだという。

 だからこそ、ミャンマーの消息通の多くは、軍事政権は自暴自棄になって破滅的行動をとったと評しているのです。

 (以上、
http://www.nytimes.com/2007/09/30/weekinreview/30mydans.html?pagewanted=print
による。)

3 参考:最近の仏教と政治の関わりの事例

 1963年に当時の南ベトナムのサイゴンで僧侶が静かに瞑想しつつ焼身自殺を遂げ、ベトナム戦争に抗議したことは覚えておられる方も多いでしょう。
 また、やはりベトナム人の僧侶であったナットハン(Thich Nhat Hanh)は、米国におけるベトナム戦争反対運動に大きな影響を及ぼし、キング(Martin Luther King)牧師を説得して戦争反対へと転じさせました。
 カンボジャではクメール・ルージュが僧侶の殆ど全員の6万人も虐殺しましたが、僧侶のゴサナンダ(Maha Ghosananda)は、自分の家族全員をクメール・ルージュに殺されたにもかかわらず、国の再建にあたってクメール・ルージュをのけ者にしないように主張しました。
 1987年9月にはチベットで僧侶達が反中共運動の先頭に立ちましたが、当時チベットの統治に当たっていた胡錦涛は戒厳令を敷いてこれに対処しました。
 
 (以上、
http://www.guardian.co.uk/comment/story/0,,2180652,00.html
による。)

 以上は、仏教がどちらかと言えば政治とプラスの関わり方をした事例ですが、マイナスの関わり方をしたスリランカの事例もあります。
 ここでは、仏教が多数派で仏教徒のシンハリ人(Singhalese)と少数派でヒンズー教徒のタミル人(Tamils)との内戦を激化させる要因となっているのです。
 しかし、総じて言えば、無神論の宗教であって寛容を旨とする仏教は、キリスト教やイスラム教よりは、はるかに政治にプラスの影響を及ぼして来たと言えるでしょう。

 (以上、
http://www.latimes.com/news/opinion/la-oe-buruma29sep29,0,3100047,print.story?coll=la-opinion-rightrail
(9月30日アクセス)による。)
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<太田>
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 コラム#2098(2007.10.1)「朝鮮戦争をめぐって(その5)」のさわりの部分をご紹介しておきます。
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 このシリーズは、朝鮮戦争についてのシリーズなので、東アジア25年戦争全体をきちんと取り上げるのは別の機会に譲ることとし、ここでは朝鮮戦争以前については、スケッチ風に触れるにとどめたいと思います。
 
 トルーマン大統領によって解任された後、マッカーサーが・・米上院で、「これらの原料の供給を断ち切られたら、1,000万人から1,200万人の失業者が発生するであろうことを彼ら(日本政府・軍部)は恐れていました。したがつて彼らが戦争に飛び込んでいつた動機は、基本的に安全保障上の必要に迫られてのことだったのです・・」と証言したのは、米国による日本への経済制裁が日本を対米(等)自衛戦争に追い込んだ、と指摘したものであると受け止められています・・。
 しかし、もし日華事変が日本による支那の侵略戦争であったとすれば、侵略されていた支那(国民党政権)を軍事援助や対日経済制裁等によって支援した米国の行為は正当な行為であり、このような正当な行為を行っていた米国に対して日本が自衛権を発動する・・安全保障上の必要によって開戦する・・ことは許されないはずです。
 となれば、この時点でマッカーサーは、日米戦争(太平洋戦争)だけでなく、日華事変も日本の自衛戦争であったと思っていたに違いない、ということになります。
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 1948年11月中に判決が逐次言い渡された極東裁判では、日華事変以降の日本の戦争は、共同謀議に基づく侵略戦争であったとしており、当然これはマッカーサーの認識でもあったはずなのに、この彼の認識を180度変えさせたものこそ朝鮮戦争であった、と私は考えているのです。
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 最後に、どうして私が中国国民党・・を容共ファシスト呼ばわりしているのか、そしてどうして中国国民党政権との戦争が日本の自衛戦争であったかを簡単にご説明しておきましょう。
 そのためには、孫文・・の時代まで一旦時計を巻き戻す必要があります。
 1912年に国民党という自由民主主義政党が支那で結党され、孫文が党首になるのですが、彼は名目的な党首でしかなく、実権はナンバー3の自由民主主義者、宋教仁・・(コラム#234)が握っていました。

(続く)