太田述正コラム#2093(2007.9.29)
<ミャンマー動く(特別編)>

1 始めに

 少し、コーヒーブレイクと行きましょう。

2 ミャンマー最後の国王即位のいきさつ

 1878年にミャンマーのミンドンミン(Mindon Min)王(注1)が瀕死の状態に陥った時、王妃は彼女の義理の息子であるまだ少年のティボー(Thibaw)王子を82人の王位承継資格者を退けて王位に就けようとしました。

 (注1)18世紀中葉にアラウンパヤー(Alaungpaya)王によってビルマが再統一され、コンバウン王朝が始まるが、ミンドンミン王は10代目、ティボー王は11代目にしてミャンマー最後の国王。ミンドンミンは在位が1853〜78年であり、開明的な国王であり、前代の国王の時に1852年の第2次英緬戦争で奪われた沿岸地方の回復に努めるもそれを果たせなかった。彼は1857年に新都マンダレーをつくった。(
http://www.myanmars.net/myanmar-history/king-mindon.htm
。9月29日アクセス)

 まず彼女は、宮廷で働いていたフランス人の機織り職人にベルベット生地を織らせました。
 2月15日の夜、義理の息子の強力な競争相手の所を刺客が襲い、ベルベット製の袋に彼らを詰め込んで殴って死に至らしめました。
 これは、貴族の血を流すことはタブーだったので、ベルベットに彼らの血を吸収させるとともに、彼らの叫び声が聞こえなくするためでした。
 こうしてティボーはめでたく王位に就いた(ただし、正式即位は1881年)のです(注2)。

 (以上、特に断っていない限り
http://www.guardian.co.uk/burma/story/0,,2179847,00.html
(9月28日アクセス。以下同じ)による。)

 (注2)在位1878〜85年。1885年の第3次英緬戦争で敗れ、1886年にミャンマーは英国の植民地となり、ティボーは王妃らと共にインドのヤダナルギリ(Yadanargiri)に移送され、そこで1916年に58歳で生涯を閉じる。

 大部分が仏教徒であり、穏和な印象のあるミャンマー人の残虐性が窺える逸話ですね。

3 サヤサンの叛乱

 1930〜32年のサヤサン(Saya San)の叛乱は、英領時代のミャンマー最大の叛乱です。
 この叛乱にも僧侶達が大きな役割を果たしました。
 叛乱者達は刀と槍だけで戦ったのですが、英軍兵力約10,000人が投入されてようやく鎮圧されます。
 この間、捕らえられて処刑された叛乱指導者の僧侶サヤサン(Saya SanまたはSayar San)を含め、ミャンマー人約10,000人が死亡しました。

 (以上、
http://www.atimes.com/atimes/Southeast_Asia/II28Ae03.html
http://www.myanmars.net/myanmar-history/sayasan.htm
による。)

 一見この叛乱は、日本統治下の朝鮮半島で1919年に起こり、朝鮮人7,509人が死亡した三・一事件と対比されるべきもののように思われるかもしれませんが、植民地化からわずか9年目に起こった三・一事件とは異なり、44年目も経ってから起こったサヤサンの叛乱は、英国によるミャンマー統治がいかに過酷なものであったかを示すものであると私は考えます。
 というのは、サヤサンの叛乱の原因には反英的要素や仏教的要素もあるものの、主たる原因は経済的なものであったからです。
 ミャンマーは英領インド帝国と一体化させられており、インド人が流入し、インド人高利貸しによってミャンマーの農民達は財産を奪われ、しかも植民地当局による重税に苦しんでいました。
 そこへ、経済不況によって米の価格が暴落し、農民達は深刻な生活苦に陥り、叛乱を起こしたのです。

 (以上、ミャンマーネット上掲、及び
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E3%83%BB%E4%B8%80%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E9%81%8B%E5%8B%95
による。)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 コラム#2094(2007.9.29)「朝鮮戦争をめぐって(その3)」のさわりの部分をご紹介しておきます。
 ・・
3 朝鮮戦争とは何だったのか

 (1)米国の東アジア戦略大転換の契機

 朝鮮戦争は、日本の再軍備を認めない戦略から、日本を米国の東アジア防衛の拠点とする戦略への大転換を米国にもたらしました。
 この米国の戦略転換の転轍手となったのは昭和天皇であり、以下のような経過をたどります。

 <中略>

 この際、付け加えておきましょう。
 当時の吉田茂首相は、米国の本格的再軍備命令に抵抗し、警察予備隊の創設でお茶を濁した上、7月末の参議院外務委員会において、「私は<米国に>軍事基地は貸したくないと考えております」とまで発言します。
 これらが吉田による米国に対する意趣返しであることに天皇が気付いていたのか気付いていなかったのかは定かではありませんが、いずれにせよ危機意識を募らせた天皇は、同年8月、日本との講和問題の責任者であるダレスに対し、「基地問題をめぐる最近の<参議院における>誤った論争も、日本の側からの自発的なオファによって避けることができたであろう」に、との吉田を批判する「文書メッセージ」を直接送っています。
 とまれ、昭和天皇の描いた日本再軍備プラス双務的日米安保構想は、こうして吉田茂によって軍隊もどきの自衛隊プラス片務的日米安保へと矮小化されてしまい、日本は米国の保護国に成り下がってしまったわけです。
 ・・

 (2)東アジア25年戦争の最終章

 私は、朝鮮戦争(1950〜51年)は、1925年の中国国民党の北伐開始によって始まった東アジア戦争の最終章である、とらえています。
 ・・私は、東アジアにおける自由民主主義と全体主義との戦いという視点に立って25年戦争ととらえているのです。
 その主要アクターは、自由民主主義の日本と米国、共産主義(スターリン主義)のソ連(ロシア)と中国共産党、そして容共ファシストの中国国民党、です。

(続く)