太田述正コラム#1664(2007.2.18)
<パリの暗黒史とフランス>(2007.9.19公開)

1 始めに

 昨年出版されたパリのロンドン大学分校で教鞭をとる英国人ハッセー(Andrew Hussey)によるPARIS: The Secret History(Bloomsbury またはViking) が米英でベストセラーになっています。
 この本の書評をベースにパリの暗黒史を振り返り、フランスに思いをはせてみましょう。
 (以下
http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/books/history/article678038.ece
http://www.philly.com/mld/inquirer/entertainment/books/16498253.htm
http://www.nytimes.com/2007/02/04/books/review/Weber.t.html?ei=5070&en=729f874f8ab53e42&ex=1171947600&pagewanted=print
http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9C03E2DB1031F932A15751C1A9609C8B63&sec=&spon=&pagewanted=print
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/02/15/AR2007021502126_pf.html
http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Paris
(いずれも2月18日アクセス)による。)

2 パリの暗黒史

 パリの歴史は、芸術と哲学と文学の歴史であると同時に、殺人・極貧・売春・アル中・カルト・暴動・革命の歴史でもある。
 ここでは、パリの歴史の暗黒面に焦点をあてることにしたい。

 パリの叛乱の歴史は、パリにまで勢力をのばしつつあったローマに対する紀元前52年のケルト人の叛乱に遡れるのかもしれない。
 カエサル(シーザー)はガリアにおけるこれらの叛乱を鎮圧した後、ローマ全体の支配者への道をかけのぼっていった(コラム#1603)。
 フランスの首都たるパリは、侵入してきたゲルマン人のフランク族が、建国したフランク王国の首都をパリに定めたことに始まる。

 フランク族は残虐な連中だった。
 613年にフランク王国のある王妃は、国王を10人殺したとして、ラクダに三日間つながれ、通りかかった者は誰でもこの王妃を殴打したり強姦したりすることができる、という罰が与えられた。
 1173年にルイ6世の後継争いの過程で、後継者がパリの街中でイノシシに襲われて殺されたと記録にあるが、恐らく死因は別だろう。

 1163年に原型ができたノートルダム寺院(Cathedral of Notre-Dame)は、ケルト時代の多神教において犠牲が捧げられた丘に建設されたところ、16世紀に至るまで、その四日間のお祭り(saturnalia)の際には、殺人と集団セックスがつきものだった。
 1656年には、パリ市民の100人に1人が精神病者収容所に入れられていた、という記録もある。

 現在のフランスの根深い反イスラム教的心情の芽生えも、早くも14世紀のパリに見いだすことができる。この反イスラム教的心情をひっさげてフランスは、19世紀にアルジェリアの植民地化に乗り出し、これが後のアルジェリア独立戦争という悲劇の伏線となる。

 19世紀末には、無政府主義のあるグループの連中が、知識人や大衆の後押しの下、パリの企業を爆破したり市民を殺害したりして、市民生活を震撼させた。
 ソルボンヌに大学ができたのは13世紀の半ばであり、パリは欧州の学術の中心になるのだが、1229年には早くもパリで、ある酒場でのワインの値上がりに激高した学生達によって暴動が起きている。1968年のパリ学生暴動は700年以上の学生暴動の歴史を背負っているのだ。
 また、パリにおける虐殺史は、1572年に、時のフランス国王シャルル9世(Charles IX)の指示に基づき、カトリックの暴徒が推定3,000人のプロテスタントを虐殺した1572年の聖バーソロミューの虐殺に始まる。
 14世紀は文字通りパリの暗黒時代だ。戦争・疾病・暴力・飢饉が続き、暴動がうち続いた。これに対して軍は容赦なく武器をふるい、この世紀を通じて、毎夜平均15人のパリ市民を殺害した。

 1789年にパリ市民のバスティーユ襲撃がきっかけとなってフランス革命が起きる。
 その革命は過激化し、1792年にはパリ民衆が「反革命的」市民約2,000人を虐殺した。
 1794年には、革命派の内ゲバ的粛正が始まり、わずか4週間で約1,300人の「裏切り者」がギロチンにかけられた。
 1848年の2月革命の際には、パリの労働者達が叛乱を起こし、政府軍によって約5,000人が殺害されている。
 1871年の普仏戦争での敗戦直後に、講和内容に反発したパリ市民が蜂起し、パリ・コミューン政府を樹立するも、政府軍と市民軍双方併せて4,000〜5,000人の犠牲者を出してこの叛乱は鎮圧され、その後市民軍要員約10,000人が銃殺された。サクレクール寺院(Sacre-Coeur basilica)は、この時多数の犠牲者が出た場所(丘)に政府によって建設され、1873年に完成したものだ。

3 感想

 英国人がどんな風にパリ、ひいてはフランスを見ているかが良く分かりますね。