太田述正コラム#1647(2007.2.4)
<昭和日本のイデオロギー(その5)>(2007.9.13公開)

 以上見てきたように、江戸時代の日本は、既に、16〜17世紀のアングロサクソン(イギリス)社会並に近代的な社会だったのですから、丸山真男が、当時の日本社会において近代化への契機を見出そうとしたのは、18世紀〜20世紀初頭の西欧、就中ドイツの有識者の問題意識にとらわれた、愚行であったということになるのです。
 丸山の「近代」認識と学問方法論には問題がある、と申し上げた理由がお分かりいただけたでしょうか。

 そして彼の、江戸時代に関する歴史認識の問題は、その論理的帰結である、と言えるのではないでしょうか。
 私は、丸山とは違って、江戸時代の日本は近代的な社会だったと申し上げましたが、丸山が『日本政治思想史研究』を書いた頃までの日本史学が依拠していた事実と全く違う事実がその後それほど新たに発見されたわけではありません。
 どのような観点から評価するかによって、同じ事実でも全く異なった意味を帯びてくる、ということなのです。
 江戸時代の日本社会を18世紀頃までの西欧の中世ないしアンシャンレジームになぞらえたいというバイアスを持った丸山の目に、私が援用した事実がどのように映じていた可能性があるかを想像してみましょう。
 比叡山焼き討ちを、単に、3,000〜4,000人の僧侶等を虐殺し、400〜500の堂塔坊舎を灰燼に帰せしめた(
http://www7a.biglobe.ne.jp/~echigoya/ka/HieizanYakiuchi.html
前掲)「中世」的蛮行・・西欧史では17世紀前半の30年戦争の時等に、しょっちゅう起こっていた・・と後ろ向きにとらえることもできますし、楽市楽座を「商工業者を荘園領主から解放し<戦国>大名の統制下に置くことが・・・目標であった」(
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/rakuitirakuzanosei.html
前掲)ととらえれば、楽市楽座を単なる商工業に係る中世的支配権の移転とみなすことすらできるでしょう。また、太閤検地も、秀吉の全国統一のための兵糧確保を目的としていた(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E9%96%A4%E6%A4%9C%E5%9C%B0
。2月3日アクセス)、と矮小化することが可能ですし、刀狩りも、秀吉が民衆支配の強化を図るために民衆の武装解除をした(
http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn0508/sin_k249.html
前掲)だけのことだと言えなくもありません。
 まさに、江戸時代の日本社会は、中世ないしアンシャンレジームそのものだ、ということになってしまいます。
 バイアスが明らかに丸山の目を曇らせていたことが分かるのは、彼の一揆や打ち毀しの取り上げ方です。
 丸山は、以下のように、執拗に江戸時代を、暗黒時代であるかのように描きます。

 「農民の肉体的生命の維持をも危殆ならしむる底の貢納義務・・・」(上掲書326頁)、「一切の社会的矛盾が<江戸時代のような>封建社会に於ては悉くその捌け口を農民に向って求め、農民の肩の上に堆積されて行く」(253頁)、「最低生活線まで押しつめられた農民は物狂はしい一揆に最後の打開を求めて行った・・・。寛永から享保にかけての百姓一揆は・・俄然倍加するに至った」(上掲書125頁)、「天明7年の所謂、「天明の打ち毀し」の如きは大阪に始まって殆ど同時に、京・奈良・伏見・堺・山田・甲府・駿河・広島・長崎・石巻等殆ど全国に起り、とくに江戸のそれは「江戸開発以来未曾有の変事地妖」といはれる程峻烈を極めた」(277頁)、「封建的支配体系は・・・都市に於ける打毀し・・・農村に於ける一揆・・・によって政治的にも解体の過程を辿り・・・」(同245頁)、「近世初期より享保に至るまで徐々たる上昇を続けて来た全国人口数はただに増加をとどめたのみならずつひに絶対的な現象を開始する。」(254頁)

 史料に記されている事実だけを連ねれば、こういう結論になっても不思議ではありませんが、井沢元彦が『逆説の日本史』シリーズで繰り返し指摘しているように、史料に記されるのは異常な事態だからこそなのです。
 実際、「江戸時代265年間を通じて、全国規模での打ち毀しが起きるほど米価が高騰していた時期は、思い切り長く見ても10年はないだろう」というのがその後明らかになってきました。
(以上、石川前掲書30頁による。)
 また、一揆についても、「天明の飢饉があった1780年代には、<一揆の>一年間の平均が22.9件、天保の飢饉があった1830年代には27.9件<に過ぎない。>しかも、・・・不穏とか逃散というだけでも1件になる。」(同97頁)、「<そもそも>もっとも悲惨だった・・・天明の飢饉で<は>全国で50万人の餓死者が出たということになっている<が、各>藩当局が、幕府に対して過大な被害を報告したと考え<られる。>・・・50万人という数<は>かなり怪しい。」(101〜103頁)ことが分かってきました。
 人口については、平野面積当たりでは、江戸時代の日本は、当時の世界の中で最も人口密度の高い社会であった可能性が強く、これは当時の日本の米を始めとする農業の生産性がいかに高かったを示すものです(107頁)。
 なお、年貢の実態については、以前(コラム#1639)で申し上げました。

(続く)