太田述正コラム#1632(2007.1.22)
<昭和日本のイデオロギー(その1)>(2007.8.4公開)

1 始めに

 昭和日本のイデオロギーなどというものがあるのでしょうか。
 戦前の日本と戦後の日本は断絶している、と考えている人にとっては、そんなものがあるはずがない、ということになるはずです。
 しかし、私自身はあると考えています。
 そのことは、これまで私のコラムにずっとつきあってこられた方は気付いておられるのではないでしょうか。
 私の考えを申し上げる前に、昭和日本のイデオロギーについて、私が比較的高く評価する日本の有識者がこれまでどんなことを言ってきたかを二、三ご紹介しておきたいと思います。

2 山本七平

 (1)山本七平の主張
 
山本七平の昭和日本のイデオロギー論は二段構えになっています。
 山本に言わせると、北条泰時(1183〜1242年)が1221年に承久の変で京都に攻めのぼり、三上皇を配流し、執権に就任後、「貞永式目」を発布した貞永元年(1232年)以来、日本において、この「貞永式目」なる現実を追認した「幕府法」と形骸化したところの律令格式に基づく「天皇法」とが並存するようになったのであり、この基本構造は明治まで、そしてある意味では現代まで変わっていません。
 戦後の「天皇法」は憲法であり、「幕府法」は政府憲法解釈というわけです。
 そして、この基本構造を背景として、江戸時代に生まれて先の大戦での日本の敗北によって消滅した特異なイデオロギーが尊皇思想である、というのです。
 すなわち、昭和のイデオロギーたる尊皇思想は、江戸時代に発し、明治、大正と受け継がれてきたイデオロギーである、というのが山本の考えです。
 (以上、山本『現人神の創作者たち』文藝春秋1983年 10頁、13〜15頁)
 山本によれば、尊皇思想は、徳川幕府が官学とした儒学的正統主義と日本の伝統とが習合してできたところの、朱子学の亜種ともいえる思想であるとし、その実質的創始者は山崎闇斎(1619〜82年)門下の俊英3人、すなわち崎門三傑の一人浅見絅斎(1652〜1712年。主著は『靖献遺言』)です(1頁、140頁以下)。
 この山本の主張からすれば、戦前の日本と戦後の日本は思想が変わったという意味では断絶しているけれど、様々な日本的思想を生み出す法の二重構造は変わっていないという意味では連続していることになります。

 (2)批判
 遺憾ながらこれは、山本にしては余りにも説得力のない主張だと言わざるをえません。
 まず、日本における法の二重構造は、支那の法制度を輸入した上で翻案して律令制度ができた直後から始まっており、それが明治維新後は、支那の法制度が欧米の法制度(戦前はドイツ、戦後はこれに米国が加わった)に変わっただけで、輸入された上で翻案された法制度と日本の現実との乖離は一貫して続いてきたものです。
 また、摂関政治を担った藤原氏は天皇家の外戚たることに自分達による統治の正統性を求め、武家政治を担った武家は、天皇家の血筋(源氏または平家)たることに自分達による統治の正統性を求めた、という点だけをとっても、尊皇思想は日本の歴史を通じて一貫して存在した思想であり、江戸時代にはこの尊皇思想に朱子学的化粧が施された、というだけのことです。
 ですから、鎌倉時代末期(元寇)、戦国時代末期(南蛮勢力の到来)、幕末(列強による開国強要)、そして戦前から戦中にかけての時期(孤立化)に尊皇思想が特に高まりを見せたのは、日本の対外的危機の時代において、天皇家を中心として求心力を回復して強力な政権をつくろうとする、ごく自然な現象に他ならないのです。

(続く)