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太田述正コラム#0019
パレスティナ紛争(その2) 
 パレスティナ紛争が二つの宗教の信徒の間の紛争であるというがどういうことか、もう少し具体的に説明しましょう。

 ユダヤ教、キリスト教とイスラム教は同根の宗教ですから、(唯一神、悪魔、最後の審判、預言者等の教義面で)似ているのは当然なのですが、このうちユダヤ教とイスラム教はとりわけよく似ています。
 第一に、プロの聖職者が存在しない点です。祭祀を独占的に行い、神と一般信徒とを媒介する、階層制を成す聖職者集団が存在しないということです。これはキリスト教や仏教と決定的に違う点です。
 第二に、強い社会・生活規制(宗教に由来する法、安息日・食物禁忌等)があるという点です。社会・生活規制はキリスト教や仏教にもないわけではありませんが、弱いものにすぎません。
 第三に教義の戦闘性です。これを象徴しているのが、預言者自らが武器をとり、軍隊を率いて戦う場面が旧約聖書やコーランにはしばしば登場することです。イエスが戦ったのではキリスト教が成り立ちませんし、仏陀が戦うことなど考えられないことと比較してください。
(以上は、The Koran, Penguin Books 1990、Holy Bible(欽定訳)、「イスラム教」(現代書館1986年)等による。)

 しかし、これほど似ているにもかかわらず、ユダヤ教は布教をしないのに対してイスラム教では布教が至上命題だという決定的な違いから、両者は全く異なった歴史をそれぞれの信徒に歩ませることとなり、このこともあって、180度違った世界像をそれぞれの信徒に抱かせるに至ったのです。
 まず、布教をしないことからユダヤ人は常に少人数であったため、帝国を形成するに至らなかったどころか、比較的初期の一時期を除いて、自分達の国すら持ち得ませんでした。そして世界中にディアスポラとして散らばっていきました。この結果、ユダヤ人は常に圧倒的多数の敵意を持つ異教徒に囲まれて生活することとなり、武器を持たず、交渉と妥協によって生き延びる知恵を身につけました。彼らは教義の戦闘性においても社会・生活規制においても、妥協を強いられたのです。世俗化を強いられたと言ってもよいでしょう。
 他方、アラブ人は、布教戦争の結果短時日で大帝国を形成しました。その後、アラブ人の帝国は衰退したとは言うものの、周りの非アラブ人の中にイスラム教はどんどん広がり、その中でアラブ人はイスラム教の守護者として一目置かれる存在であり続けました。現在でもサウディアラビアはイスラム信仰の中心ですし、エジプトはイスラム教学の中心です。従ってアラブ人は誇り高い楽観主義者であり続けました。だから、彼らは交渉と妥協を好まず、ややもすればすぐ武器をとりがちであり、教義の戦闘性も社会・生活規制も温存されたまま現在に至っています。いわば、彼らは世俗化することなく現代までタイムスリップしまったわけです。

 その両者が、なにゆえパレスティナであいまみえることになったのか。
 それは偶然の所産です。ナチスによるユダヤ人虐殺によって頂点に達した欧州等でのユダヤ人迫害に、ユダヤ人が耐えられなくなったということです。だから、世界のどこでもいいから自分たちの国を持ちたいと思った。たまたまその時、旧約聖書に言う、将来のメシア降臨の際に神からユダヤ人に与えられる約束の地(でありかつ先祖の地でもあった)パレスティナ地方が人口希薄であったというわけです。本来の教義からすれば、メシア降臨の時期まで待たなければならないはずなのに、20世紀に約束の地に戻ってしまおうというのですから、ここにもユダヤ人の柔軟な発想があらわれています。
 そして、ユダヤ人は平和的かつ合法的にアラブ人等から土地を取得してパレスティナに入植して行きました。その結果、マラリアがあるため、とりわけ人口希薄であった地中海沿岸地方を中心に入植することとなり、ユダヤ人にとってゆかりの深いエルサレム等のパレスティナ中心部はアラブ人地区であり続けました。(またもやユダヤ人の柔軟性です。ちなみにエルサレムはユダヤ教の一番の聖地ですが、イスラム教にとってはメッカ、メディナに次ぐ三番目の聖地にすぎません。)
 第二次世界大戦が終わり、ユダヤ人はユダヤ人入植地をつなぐ形でユダヤ国家を成立させようとし、国連もまたこれを認めたのですが、アラブ人側が拒否して両者間で戦争が始まり、ユダヤ人側が勝利し、ユダヤ人側がパレスティナの約8割をとる形でユダヤ国家イスラエルが成立します。
 しかし、その後も累次にわたるパレスティナをめぐる中東戦争、レバノン紛争、第一次インティファーダ(住民蜂起)、現在進行形の第二次インティファーダ等を通じ、アラブ側からのイスラエル攻撃は絶えることなく続いてきています。
 当然、難民問題が発生します。1967年の時点でアラブ人難民(いわゆるパレスティナ難民)の累計数は656,000人でイスラエル地区に残ったのは160,000人であったのに対し、アラブ諸国からのユダヤ人難民の累計数は567,654人でアラブ諸国に残れたのは殆どゼロでした。ここから、難民問題の規模は双方にとってほぼ同一であったことと、迫害の程度はどちらの方が大きかったかが分かります。しかも、アフリカ北岸に関しては、アラブ人によって征服されアラブ化したのは1300年も前ではないというのに、それ以前の今から2500年も前からそこに住んでいたユダヤ人が追い出された形です。
 このパレスティナ難民をアラブ諸国は受け入れるのを拒み、イスラエルからの補償金支払いの申し出も拒んだ結果、アラブ人難民問題は未だに解決していません。他方、ユダヤ人難民中の希望者はすべてイスラエルに受け入れられ、こちらの方の難民問題は解消しました。
 (この段落は、P.J. Vatikiotis, The History of Egypt, From Muhammad Ali to Mubarak, Johns Hopkins University Press, 3rd Edition, 1985, PP12も参照。但し以上、全般的にはPaul Johnson, A History of the Jews, Harper & Row, 1988、及びイスラエルのベングリオン大学のBenny Morris 教授の論考(http://www.guardian.co.uk/g2/story/0,3604,653417,00.html)を参照した)

 さて、パレスティナ紛争の現時点での最大のイッシューは、エルサレムの帰属、(来るべき)パレスティナ国家とイスラエルとの線引き(ユダヤ人入植地の扱いを含む)、そしてパレスティナ難民の取り扱い、の三つと言ってよいでしょう。一貫して変わっていないのは、ユダヤ人側がこの三つについて交渉、妥協の用意があるのに、アラブ人側にはタテマエはともかくホンネでは交渉、妥協の意志が全くないことです。変わったことと言えば、イスラエル成立後半世紀以上を経た現在でもアラブ人側は変わっておらず、従って見通しうる将来も変わらないであろう・・変わるとすれば、イスラム教が世俗化した時だ・・ということをユダヤ人側が思い知ったということです。選挙による「タカ派」シャロン首相登場の背景はそういうことであり、彼がアラファト(、すなわちパレスティナ当局(PA)、と言ってもいいでしょう)は交渉相手としないと宣言した背景はそういうことなのです。(続く)

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