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太田述正コラム#0052(2002.7.30)
<東北地方論>

 今回は、私が仙台防衛施設局長時代に書いた、任地の東北に係わる文章を二つご紹介します。
第一部の文章は、1999年の暮れに執筆し、2000年の正月に、東京での勉強会仲間の賀詞交換を兼ねた文集に掲載したものであり、第二部の文章は、同じ年の2月に学生時代以来久しぶりに安藤昌益についての本を読み返し、備忘録として作ったメモです。

                <第一部>
           
            日本の原型としての東北地方

1 始めに
 1999年は、東北のルネッサンスの年であったのではないでしょうか。10月には仙台の東に隣接する多賀城市に宮城県立の東北歴史博物館(??)がオープンしましたし、同じ月に、山形県の東北芸術工科大学東北文化研究センターから、学術雑誌「東北学」の創刊号(??)が発行されました。また、中央公論の12月号には、「「東北」日本の原風景」という座談会(??)が掲載されています。
 東北地方は、6つの県から成り立っていますが、ここで重要なことは、??―??を通じ、その関係者達が、「東北」が単にこれら6つの県を便宜的にくくった呼称なのではなく、実態概念であることを当然視している点です。1967年に出版された、「東北の歴史」(上中下巻。吉川弘文館)(??)が、「東北とか、九州とか、特定の地方の歴史を総合的に考察し、これをわかりやすく叙述するといった仕事は、まだどこでもおこなわれていないようである<が、ここに東北の歴史を送る。>」述べているところを見ると、どうやら、実態概念としての地域呼称が成立しているのは、東北だけのようですね。
 では、その東北とはいかなる所なのでしょうか。

2 日本の原型としての東北
 旧石器時代の終わり頃には、石刃文化の担い手たる日本人が東北に生きており、同じ彼らが、引き続き1万2000年前(一説によれば、1万6000年以上前)に、世界最古の土器文化たる縄文時代の文化の担い手となります(西尾幹二「国民の歴史」(扶桑社 1999年10月)(??PP55-60)、小林達雄「縄文人の世界」(朝日選書 1996年7月)(??)PP9)。
 土器を獲得した日本人は、これで煮炊きすることによって、世界で初めて木の実や海産物を広範に食物化するに至り、狩猟のみに依存する生活から脱却し、定住化を果たします。(??PP18)
 この結果、東北地方は、「生活環境、つまり狩猟・漁労の生活の場として、・・恵まれ・・山野は、堅果を育成する植物群に恵まれていて、これを求めて動物群が密集したこと、河川には、北方でよく見られるように、鮭や鱒が産卵のためにさかのぼって来て、魚群が多かったこと、海岸線が長く、暖流・寒流の落ちあう海域として、そのどちらの魚群にも恵まれていたこと、さらに、潮についていえば、太平洋岸では、干潮・満潮の差が大きいために、魚種を豊富にするのに、役立ったこと。そして、このような好条件のもとで、人も多く集まり、したがって、自然にその生活遺跡や遺物が、多く残存することになった・・」(??上PP14-15)というわけです。
 つまり、日本の歴史は、このような豊かで美しい自然に恵まれた東北に始まったのです。
そして、「縄文時代の遺跡は、・・その遺跡数を、他の地方とくらべてみると、東北地方にひじょうに多い」(??上PP14)ことから、東北は縄文時代を通じて日本で最も繁栄した中心的地域であり続けたと言ってよいでしょう。(東北が、その後産出することとなる金(きん)のイメージともあいまって、平安時代以降、歌枕の地とされ、都人(みやこびと)の憧憬を集めたのは当然であったと言うべきでしょう。芭蕉もまた、この東北に惹かれ、畢生の名作、「奥の細道」を残しました。)
しかも、伊藤憲一監修「日本のアイデンティティ 西洋でも東洋でもない日本」(フォレスト出版 1999年2月)(??)の中で、韓国人の呉善花さんが言っているように、「日本の場合・・アジア的な農耕社会以前の時代(つまりは縄文時代・・太田)に文化的な面で精神構造が完成されしまっている」可能性が大きいのです。
縄文時代において、日本人は、「旧石器時代のような遊動的生活に戻らなくてはならなくなる。こうした容易に予測できる弊害は、美味で効率的であるからといっても・・集中せず、多種多様な・・物を食べることで回避・・」(??PP74)しました。つまり、縄文時代の日本人の精神は、自然との共生をめざすものでした。そして、縄文時代におけるその生活面かつ文化面での現れが縄文土器であり、土偶です。
縄文時代を通じて、このような、狩猟・漁労・採集(三内丸山遺跡から明らかになったように、少なくとも5500年前位にはこれに更に栽培が加わります(??PP62))を組み合わせた、バランスがとれ、豊かだが節度のある日本人の生活が1-2万年もの長期間続きます。(このことをもって、日本文明に、江戸時代の鎖国において再び示されるような停滞指向があるととらえることは、鎖国時代に日本が決して停滞していなかったという指摘もあるだけに一面的に過ぎるでしょう。)
そして、結果的に、日本人は、農耕(=特定の栽培作物に時間、人手を投入して増収を図る。そして増収の目論見を効率よく成就できるような社会的な仕組みが組織される。さらに農地の拡大を指向する過程で集団間の戦争を惹起し、やがて地域的統合から国家の形成へと発展する)生活に入るのが「異常に」遅れます(??PP3-4))。このことが、日本人の精神構造に残した刻印には決定的なものがあったに違いありません。
縄文土器や土偶の非対称の力強いフォルムは、岡本太郎や棟方志功を始めとする多くの芸術家によって「再発見」され、「再生」が図られてきましたし、自然との共生の精神もまた、東北が生み出した斉藤茂吉や宮沢賢治らによってしっかりと受け継がれてきました。
つまり、東北は、日本人が、その精神の原型を育んだ場所なのです。

3 虐げられた地域としての東北
 その後の東北の歩みは、一転悲劇的な様相を帯びます。
「中央対東北の争いは、常に中央政府による大義名分のない戦であり、それが常に東北住民の屈服に終ったことは今日疑う余地はない。屈服の後に来たものが圧制と搾取であることもまた当然であった。この東北地方の運命はいうまでもなく、日本の主作物が熱帯性の水稲に傾斜するようになった弥生時代以後において、西南日本に比べて気候条件が不利、不安定であり、農業生産力に遜色が生じたからである。」(藤岡謙二郎監修「東北地方 新日本地誌ゼミナール??」(大明堂 1984年6月)(??)PP14)というわけです。
 そして、その後も東北の苦難、受難の歴史は続きます。大和朝廷による蝦夷(えみし)の征討、前九年後三年の役、頼朝の奥州藤原氏征伐、秀吉による伊達処分、冷害等に起因する江戸時代における累次(宝暦、天明、天保)の東北の大飢饉、そして戊辰戦役(奥羽越同盟の敗北)、更には昭和初期における東北農村の疲弊、と枚挙にいとまがありません。
これらの悲劇的体験を共有するたびに、かつての栄光の日々の記憶を胸中深く蔵しつつ、東北の人々は、東北の一員たる意識を呼び覚まし、鍛え上げてきました。
これら悲劇の中から、東北は、伊達政宗(仙台藩主)、保科正之(会津藩主)、上杉鷹山(米沢藩主)、松平定信(白河藩主。寛政の改革)らの名君達や、安藤昌益(大館・八戸)、大槻玄沢(一関。蘭学者で仙台藩医)、最上徳内(山形県村山)、林子平(仙台)、高野長英(水沢)、原敬(岩手県本宮)、後藤新平(水沢)らの先覚者達を輩出してきたのです。(新渡戸稲造(花巻)や吉野作造(宮城県古川)を先覚者として認めるべきかどうかは微妙なところです。また、岩手県出身の小沢一郎が先覚者達の掉尾に列せられるのかどうか、これは今後の歴史の審判に待たなければなりますまい。)

                <第二部>

安藤昌益・・東北地方が生んだ近代人

典拠:E.ハーバート・ノーマン「忘れられた思想家」上下(岩波新書 1950年1月。 原著 E. Herbert Norman, Ando Shoeki and the Anatomy of Japanese Feudalism 同年)

?? 人と思想
 「昌益は十七世紀の末かあるいは十八世紀の初め頃久保田の城下すなわち今の秋田市に生まれた。医学とこれに関係のある諸学を秋田で学び、のちに本州北端の小都八戸に移り、医業に携わっていた」(PP20-21)、「昌益は晩年に廣く各地を遍歴ししばらく長崎に留り、貪るように外国の事情を研究したことがわかっている。」(PP33)、彼の門人は、八戸6,奥州南部1、不明6、江戸1、京都2、大阪2、奥州須賀河1、蝦夷1(PP40-41)。主著は、「自然眞営道」(百巻九十二冊。関東大震災で大部分焼失)とその要約である「統道眞伝」。(PP9)

1 自然主義・勤労主義
 (1)総論
 「轉定(天地)運囘し時行(めぐ)りて萬物生々竭(つく)る無き者は無始無終なる自然の眞感進退の直耕なり。轉定の神行進退は稼穡(かしょく)[植付と刈入―農業]なり。・・故に轉下萬國の人倫、男耕女織常営自感するは、自然の行ふなり。此の故に人、送貰(与へると受ける即ち仁と忠)、善悪、上下、の二別有ることを知らざるなり。耕織の外、他事無し。眞に自然の自行なり。怪倫哉(あやしいかな)、漢土に字畫始まり、治乱の事起れり。竺土の佛衆惑悟は私法の甫(はじ)めなり。日域の神法は偶生の始めなり。・・一たび盛んなるや、・・私工なるが故に迅かに其の本より自廃して再び行はれず。未だ盛んならず。亦自ら絶えん。・・諸法凡て之を免るること能はず。自然の為す所なり。」(下PP30-31)。
(2)モデル
ア 古代日本:「・・日本国は・・人の行ひ能く耕し、人の心正直にして・・五穀豊穣に、人情濃和して言語神感に、能く轉道の妙理自ら見(あら)はる・・神人一和の国・・漢土の儒法之を用ふるに足らず・・」(PP207-208)。「中平士の人倫は十穀盛んに耕し出し、山里の人倫は薪材を取りて之を平土に出し、海濱の人倫は諸魚を取りて之を平土に出し、薪在十穀諸魚之を易(かへかへ)して山里にも薪材十穀諸魚之を食し之を家作し、海邊の人倫も家を作り穀食し魚菜し、平土の人も相同ふして平土に過余も無く、山里に少く不足も無く、海濱に過不足も無く、彼(かしこ)に富も無く此(ここ)に貧も無く此に上も無く彼に下も無く・・」(下PP72-73)
イ アイヌ:「昌益は蝦夷地について叙情詩的記述を与えている。」(下PP85)
ウ オランダ:昌益が日本の模範とすべき外國と考えた・・オランダ・・」(下PP89)、
エ 曾子・荘子・陶淵明:「昌益が曾子(<そうし。孔子の門人>)を讃めたのはその哲学ではなくて生き方と性格を讃めたように見られよう」(下PP129)、「昌益はその思想の方法・・において荘子に負うところがあったが、しかし・・道家という一つの流派に属している・・農民を・・尊重する・・に充分に直裁でなかった・・を鋭く批判した・・」(下PP125-126)、「陶淵明<も>昌益が賞讃しそれを励みとしている人物・・」(下PP129)。

2 平和主義
「争ふ者は必ず斃れる。斃れて何の益があろう。故に我が道には争ひなし。我は兵を語らず。我戦はず。」(PP47)、「・・速に軍学を止絶して悉く刀剣、鉄砲、弓矢凡て軍術の用具を亡滅せば、軍兵大将の行列無く、止むことを得ずして自然の世に帰るべし。」(PP145)、「聖人は衆人の直耕を貪り取り、税斂を得ざるときは兵乱を起して責め取る。背くときは罪無き衆人を殺す。之を仁徳の政と謂ふべけんや。」(下PP52)。「昌益・・<は>菅原道真を賞揚し、これと反対に・・楠正成を罵倒している・・」(PP210-211)。

3 階級制度批判
「士は忠に似せて上に諂い下を刑し、賄を貪る者多く、忠を正し下を慈む者寡く、農は農にして農なり。工は巧言を以つて上下に諂ひ、己れが職欲に迷ふて世に火難有らんことを願う者之あり。商は農業の如くに風雨を厭はず働力を為すことを嫌ひ身を倦まずして形を労せずして渡世を為さんことを欲し、偽巧令色眉諂虚語を為して上下に諂ひ同輩互に父子兄弟を誑し、而も士農工の三民より倍して多く成る。是れ身力を労せずして言品を以つて渡世を為さんと欲する故へなり。此を以つて直耕の轉道を業とする者少く、妄りに貪り食ふ者多くして利欲妄念のみ盛んにして、人気抜発して轉気の運行を汚す。故に、轉気激して不正の暴邪の気を行ひ不農にして登(みの)らず。食ふ所の人は多く生ずる所の諸穀は少く、終に乱世となる。」(PP92-93)、「・・王は公卿の功を食ひ公卿は将軍の功を食ひ将軍は諸侯の功を食ひ諸侯は諸役人の功を食ひ諸役人は足軽の功を食ひ足軽は諸民の功を食ひ万民は主は奴僕の功を食ひ是れ大は小を食ひ序で皆獣世に倣ふて為る処なり・・。」(PP104)。

4 儒教批判
「君を立てるは奢の始め、萬悪の本なり、人慾の始め。」(PP136)、「・・人を治むと云ふは甚だしき私失なり。」(PP183)、「聖人は仁を以つて下民を仁(めぐ)むと云う。甚だ私失の至り笑ふべきなり。」(PP157)、「人の施を受くる者は常に人に諂ふ。人に与ふる者は常に人に驕る。」(PP149)、「・・父母を養ふとも名を立て家を起すとも耕やさずして貪食するときは道を盗む故に孝に非らず。」(PP181)。

5 仏教批判(男女平等論)
「慈悲を為す者は善に似たれども、慈悲を受くる者は他の恩を負ふて罪人なり。・・慈悲を為る者も又罪人なり。故に慈悲は罪の根なり。」(下PP53)、「女は地道・・人倫相続の本を為す。然るに五障三従と賤むるは失(あやまれ)り。然るに女の佛を貴ぶは大失なり。」(PP123)、「夫婦は自然の進退の一眞気にして人倫の太始、娑婆世界の大本なり。」(PP201)、「釈迦・・妻子を離れ愛子の念を断(き)り、父母の妙徳を無みし、出家して独身と為り、不耕貪食して虚談の弁口を以つて渡世を為す。・・其の行ひは金銀を持てる者を誑かし精舎と名づけて寺を立て美を賁り、己は袈裟を衣、美服を賁りて衆を誑かし心施を貪食し、高座に登り、説法と号して自然に之無き三界三世十界を説き、・・」(PP201-202)、、「聖徳太子・・釈迦・・経・・を貴び、日本に之を弘めんとす。是れ日本神道衰徴の始めなり。」(PP207)、昌益<は>・・空海を罵っている・・(下PP16)、「浄土宗を始めたる源空(<法然>)も弥陀を看板にして地獄の業を営む。盗人罪人の同類なり・・法華宗を弘めたる日蓮は正気の者に非らず狂乱者なり。何とならば他宗は無得道、法華のみ成仏すと云へり。」(PP214)、「俗に出家、侍、犬畜生と云へる・・」(PP214)、「一向宗始めて繁栄し、肉食妻愛、世俗に同じ。是れ終に仏法滅却して自然の世に帰るべき前表なり。」(PP219)。

6 神道批判
「・・古事記、日本記の・・書は、自然の神道に非らず。・・皆仏法に迷はされ是の如し。」(PP217)、「三種の神器・・を作ること甚だ又妄失なり。・・或いは春日を祈り貴び、或いは八幡に願を掛け、或いは天照大神を至尊と為<す>・・所の神道は自然に非ず。」(PP220)、「然らば日本の神社神法は皆無益有害なるか。然らず。神社神法は神に私欲の妄願を祈らず、唯慎んで神を敬ひ己れが業を守る、必ず神徳の幸ひ有り。」(PP224)。

7 その他
(1)孤高主義
「朋友を求むるなかれ」(PP41)
(2)鎖国批判
「近年は阿蘭陀、天竺、唐の商船のみ日本に入津して日本を窺いて、日本より行きて唐天竺を窺ふこと無し。是れ日本の知分薄き故なり。唐天竺のため辱を得て慢軽を知らざるなり。耻ずべきなり。」(PP33)。

?? 評価
 人間の歴史において、数千年は決して長いものではない。ユダヤ人もギリシャ人も、三千年もの昔に祖先のユダヤ人やギリシャ人が共有した記憶によって規定された現在を生きている。日本人もそうだということが最近ますます明らかになってきている。日本人は二千年くらい前まで(注)一万年以上も続いた縄文時代の記憶(ただし、ユダヤ人やギリシャ人とは違って、文書の記録の形の記憶ではない)によって規定された現在を生きているのだ。私はそのことを東北地方に勤務することによって痛感させられている。

 (注)国立歴史民俗博物館は2003年5月、水田稲作が日本に伝わり弥生時代が幕を開けたのは定説より約500??600年早い紀元前1000年ころ、と特定する研究を発表した(http://www.asahi.com/national/update/0519/036.html。5月20日アクセス)。この説が正しいとすると、「日本人は三千年くらい前まで」と変更する必要が出てくるが、論旨は変わらない。

 ハーバート・ノーマンは、カナダの気鋭の外交官であり、敗戦直後の日本に赴任してこの本を書いたのだが、後に米国の赤狩り旋風に巻き込まれ、最後の任地のカイロで自殺するという悲劇的な生涯を送る。彼は戦後日本を代表する知識人である丸山真男の友人で、丸山と同様の、典型的なマルクス主義的近代主義者であった。原著のタイトルがその彼の限界を示している。昌益が行った社会批判は、およそ「日本」の「封建時代」への批判をはるかに超える普遍性を有するものだからだ。(戦後のイギリス歴史学は、イギリスに封建時代がなかったことをほぼ明らかにした。つまりは、封建制とは、世界の一部だけにおいて特定の時期だけに見られる特殊な社会システムなのだ。)
 昌益は、決して孤立した奇矯、過激な思想家などではなく、東北人が一貫して抱き続けた縄文人としての常識を、雄弁に叙述したに過ぎない。全国に点在した昌益の弟子達が、全員昌益の思想を秘匿し、守り抜いたことが、逆説的ではあるが、このことを如実に物語っている。古代日本=縄文時代の記憶が東北人の間で特に強く受け継がれて行ったのは、東北が縄文日本の中心であり、その時代の伝承が直接伝えられて行ったほか、古い信仰や古い生業(マタギ等)が生き残り、また、アイヌの世界の情報が入り続け、古代の記憶が日々呼び覚まされたからである。(沖縄も、縄文時代の記憶を強く受け継いだ地方だが、ここでは立ち入らない。)この強靱な東北人の記憶は、日本人全体によって、広く共有されて行く。だからこそ、農業文明、中国文明、及び西欧文明の「侵略」に次々に直面しつつも、その都度、やがて日本において、弥生時代、平安時代、そして江戸時代における国風文化の発展的復興が可能となったのである。
黒船到来を契機として、日本は今度はアングロサクソン文明の「侵略」にさらされるに至った。21世紀を目前にした現在においても、グローバル・スタンダードを標榜するアングロサクソン文明の「侵略」は続いている。
昌益の志を(無意識のうちに)承継し、昭和時代における国風文化の発展的復興のために、傑出した役割を果たした東北人二人が宮澤賢治(岩手県出身)と石原莞爾(山形県出身)である。二人とも奇しくも、昌益が非難した法華宗の新興一分派、田中智学率いる国柱会の会員となったが、彼等は法華宗の排他性とは無縁であり、ただただ、法華宗の能動性に惹かれて国柱会の会員になったと考えられる。(宮澤賢治は、一向宗から法華宗に転向している。昭和初期の東北が、江戸時代のように、再三餓死者が続出したわけではないとはいえ、いかに悲惨な状況にあったかを想起すべきであろう。)
宮澤賢治と石原莞爾は、互いに連携を取り合うことなく、それぞれ、昭和期国風文化の精神と政治経済システム構築の主導者となった。彼等の努力の成果こそが、世界でもまれな、貧困を撲滅した、犯罪が少なく、平等かつ豊かな戦後日本社会の成立なのである。
しかし、この戦後日本の、すなわち古代日本の最大の負の遺産は、徹底した平和主義であり、その象徴としての憲法第九条である。もはや日本は、江戸時代までのように、世界から孤立して生きることはできないからだ。この負の遺産こそ、現在の日本の閉塞状況をもたらしている決定的要因であることを、日本人は一刻も早く自覚しなければなるまい。

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