太田述正コラム#0090(2003.1.7)
<コモンローの伝統(アングロサクソン論8)>

 アメリカ独立の指導者の一人であるジェファソンが起草した、独立宣言(1776年)のさわりは次の一節です。
 「われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、そのなかに生命、自由および幸福の追求の含まれることを信ずる。・・」(『人権宣言集』岩波書店より)
 われわれは、これをどのように受け止めれば良いのでしょうか。
 アメリカのノーベル賞作家のジョン・スタインベックは、『アメリカとアメリカ人』の中で、「アメリカ独立革命は、フランス革命やその後のロシア革命とは異なっている。というのは、革命を起こしたアメリカ植民地の人々は、新しい種類の政府を望んだのではなく、同じ種類の政府を、ただし、彼ら自身の手によって運営される政府を望んだからである。」(America  and Americans, The Viking Press 1966(邦訳あり))と言っています。
 ジェファソン自身、「独立宣言は、・・いままで考えられたことのないような新しい原理や新しい論議を見つけ出すのではなく、・・その主張や意見において別に独創的なことを目指したわけでもなく、・・アメリカ人[一般] の精神を表明しようとした[ものである。]」と述べているところです。(ヘンリー・リーへの手紙。『アメリカの建国思想』河出書房新社、より)
  ところで、アメリカ植民地の人々は、当初は、あくまでも、英国臣民としての権利の擁護のため、本国政府による、新たな税金の賦課等に反対して立ち上がったつもりであり、本国からの独立など、まったく考えていなかったといわれます。フランス革命を激しく非難した、あのイギリス保守主義者のエドモンド・バークが、アメリカ植民地の人々の本国政府に対する闘争を強く支持したのは、大変興味深いことと言わなければなりません(斉藤真、概説、『アメリカの建国思想』河出書房新社 1963年 参照)。どうやら、アメリカ独立宣言は、「アメリカ人一般の精神を表明しようとしたもの」というより、アメリカ人を含む、当時のイギリス人一般の精神を表明しようとしたものとうけとめるべきもののようです。
 実際、1690年に書かれた、ジョン・ロックの『市民政府論』の中の、「[人々が政府を形成するのは、自然状態において人間が享受しているところの、]生命、自由及び財産(property)を、より確実に維持せんがためである。・・すべての人間は、生来平等である。・・私の言う平等とは、すべての人間が、自分の生来の自由に関して持っている平等権のことである。」(William T. Blackstone, Political Philisophy: An Introduction, Thames Y.Crowell Company 1973 より) という箇所を読めば、アメリカ独立宣言の淵源がどこにあるかは明白です。
 しかし、その前年に制定された、「権利の章典」を見れば、ロックとても、別に目新しいことを言ったわけではないことが分かります。
 「・・僧俗の貴族及び庶民は、・・わが国民の完全なかつ自由な代表としてここに召集され、・・(かれらの祖先が同様な場合に行なったように)かれらの古来の自由と権利を擁護し、主張するため、つぎのように宣言した。・・」(『人権宣言集』)
 同じ世紀の前半、1628年に議会によって請願され、国王によって裁可された「権利の請願」には次のような箇所が出てきます。
 「「イングランドの自由の大憲章」と呼ばれる法律[マグナ・カルタ]によって、自由人は、その同輩の合法的裁判によるか、国法によるのでなければ、逮捕、監禁され、その自由保有地、自由、もしくはその自由な慣習を奪われ、法外放置もしくは追放をうけ、またはその他いかなる方法によっても侵害されることはない、と定めている。・・にもかかわらず、・・最近、多数の陛下の臣民が、[不当にさ拘禁、抑留れている。]・・従って、国会に召集された僧俗の貴族及び庶民は、謹んで至尊なる陛下につぎのことを嘆願したてまつる。すなわち・・自由人は、[不当に]、拘留または抑留されないこと。・・」(『人権宣言集』)
 この権利の請願の発案にかかわった、法学者、エドワード・コークをはじめとして、当時のイギリス人達は、自分達の自由、人権が、1215年のマグナカルタ制定以来の伝統に根ざすものであることを、固く信じていました。
 そのマグナカルタとは、どのようなものだったのでしょうか。
  憲法学者のクライムスは、次のように述べています。「すべての階級が、憲章[マグナカルタ]によって、何かを与えられた。封建大領主とその陪臣は、彼らの権利のいくつかを保証された。教会は、俗権の干渉の排除、教会法の遵守の保証を得た。自由人は、いくつかの重要な権利の保証を得た。都市と自治邑(borough)は、特権の再確認をうけ、若干の特別利益を法的に供与された。貧しく、自由でない農奴は、国王直轄荘園の農奴をのぞき、限定された保証ではあるが、今後は、途方もない額の年貢を要求されることがないという保証を得たのである。」(『イギリス憲法史』)
 しかし、マグナカルタが制定されるにいたったのも、すでに認められていたイギリス臣民各階層の自由、権利を、当時のジョン王が、対仏戦争遂行にあたって、侵害したと考えられたからでした。いったいそれは、いかなる形で「認められていた」のでしょうか。
 クライムスは、「11世紀初頭において、[イギリスを征服したデンマーク王]カヌートは、それより半世紀後のウィリアム征服王と同様、・・彼らの前任者たる王達によって、築かれた伝統や身分を破壊しようとはしなかった。」と述べ、アングロサクソン期と中世の連続性を指摘した上で、「[アングロサクソン期の]イギリス王は、法の源ではなかった。・・法は種族の慣習、または部族に根ざす権利からなり、王は、部族の他のすべての構成員同様、法に全面的に従属していた。・・法は、本質的には、その起源からしても非人格的なものであって、いにしえの慣習や、部族共同体の精神に由来すると考えられていた。法を宣言し、裁定を下すのは、王の裁判所ではなく、部族の寄り合い(moot)であり、王の任命した判事や役人ではなく、訴追員や審判員の役割を担った、近所の自由人達であった。・・王は、単に、法と寄り合いの裁定を執行するにとどまった。」と言っています。
 こういうわけで、自由と人権の起源もはるか昔の歴史の彼方へ渺として消えていってしまいます。
 この、マグナカルタ、権利の請願、権利の章典、アメリカ独立宣言などを次々に生み出していった淵源としてのアングロサクソン古来の法こそ、Common Law (コモンロー)なのです。
 われわれは、個人主義が、アングロサクソン文明の核心にあることを見てきました。しかし、個人主義社会という、人類史上空前の「異常」な社会が機能し、存続していくためには、個人が、他の個人、集団及び国家の侵害から守られていなけれなりません。守ってくれるものが、王のような個人であったり、グループや、国家であったりすれば、それらが、一転、おのれの利害にかられ、私という個人の自由、人権を侵害するようなことがないないという保証はありません。守ってくれるものが非人格的なコモンローであり、王も含めて全員がこの法に拘束されるということの重要性がここにあるのです。

 この点に注目したイギリス人を改めてあげておきましょう。 
  ヘンリー6世の大法官であったジョン・フォーテスキューは、ヘンリー6世とともにフランスへ亡命していた15世紀末、「イギリスの政治・法の学問的礼賛」という冊子を書きあげます。
 フォーテスキューは、フランスは絶対君主制であり、すべての法が君主に発し、人々はそれに服するが、イギリスは、人々の自発的黙従に基づく制限君主制であり、王自身、彼の臣民と同じ法に拘束されるとし、「予想される不幸や損害を防止し、一層自らと自らの財産を保護するためだけに王国を形成した国が、イギリス以外に存在しないことは明白である。」と指摘します。
 そして、イギリスとヨーロッパ大陸諸国のこの違いは、イギリスのコモンローとローマ法系の大陸市民法の違いに由来するとし、当事者主義的訴訟手続き、陪審制(陪審制そのものは、ローマ法に由来するが、大陸諸国では廃れたのに対し、イギリスでは完全に定着した(筆者注))、拷問の禁止、法的手続きにおける代官(Sheriff。地方の名望家が無給で勤めた)関与制などをイギリス法の特徴としてあげます。
 このように、イギリス法の大陸市民法に対する優位は明らかであるとし、陪審制一つとっても、全国どこでも、豊かでヒマがあり、教育程度も高い人々・・陪審員適格者・・がいる、イギリスのような社会でないかぎり、採用し、定着させることは難しい、と主張します。(『個人主義』より孫引き)
 17世紀には、前にとりあげたコークがいます。
 18世紀にはバークです。
 「・・われわれの自由を、祖先からわれわれにひきつがれ、そして子孫へとひきつがれるべき、・・財産として、要求し主張するのが、われわれの国家構造の不変の方針であった。・・われわれの法の・・偉大な権威者・・らが証明しようとつとめたのは、・・マグナカルタが、ヘンリー1世からのもう一つの実定憲章(死んだ兄のウィリアム2世の圧制を非難し、よい政治をすることを誓った自由の憲章。1,100年に、戴冠式の日に発布(筆者注))につながっていることであり、またそのいずれもともに、それよりさらにふるい王国の不変の法の再確認にほかならぬことであった。」(『フランス革命に関する省察』(中央公論社版))
 19世紀初頭には、マルサスがいます。
 「[イギリス人にみられる、生活]水準を向上させようという強い願望は、・・あっぱれなまでの勤勉と未来予見精神をもたらした。・・この性向は、専制的な国々における絶望的なまでの怠惰さとはあまりにも対象的である。これは、各個人におのれの勤勉の果実を確保せしめる、イギリス政府の構造とその法の優秀さのたまものである。」(マクファーレーンは、『結婚』の中で、マルサスの「人口論」からの引用としているが、「人口論」中では発見できず。(筆者注))  
しかし、このようなコモンローの不変性の考え方に対しては、17世紀に早くも異論が唱えられ始め、19世紀以降は、イギリスにおいても、この異論の方がどちらかといえば通説化します。
 どうしてそんなことになったのかは興味深い問題ですが、私としては、少数説の考え方こそアングロサクソン史を現実につき動かしてきた、ということに着目し、少数説に軍配をあげています。
いずれにせよ、イギリスの現在の通説受け売りの日本の法学者達の、例えば、マグナカルタについての次のような説明ぶりは、いささか一面的すぎるような気がします。
  「マグナカルタは、・・最初は近代的な意味での「自由」や「基本的人権」の保障を目的としたものではなかった。それは、本質的には、封建制度温存のための文書であり、そこで「自由」と呼ばれていたものは、バロン(国王直封の貴族(筆者注))達が国王のコントロールを受けずに自己の下にある人々を支配し得ることに外ならなかったのである。」(田中秀夫(英米法学者)、マグナカルタ解説(「世界人権宣言集」岩波書店 1957年より)) 「いうまでもなく、マグナカルタそれ自体は、13世紀初頭というその出生の時期自体からもうかがえるとおり、中世的自由、中世的立憲主義を内容とする文書であって、近代的性格のものではない。」(樋口陽一(憲法学者)『比較憲法 改訂版』青林書院 1984年)

http://www.bbc.co.uk/history/state/documents/magna_03.shtml。1月20日アクセス。