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太田述正コラム#0146(2003.9.2)
<スペイン・ラテンアメリカとは何か(その2)>

 (昔の話をコラムに書くと、いつもメーリングリスト登録者の数が減るので、今回も覚悟しています。しかし読者の方々にぜひご理解いただきたいのは、現在の世界を理解するためには歴史を知ることが不可欠だということです。私が折に触れてこのコラムで昔の話をしてきているのはそのためです。)

 スペイン・ラテンアメリカとは欧州そのものだ、というのが標記の前回のコラム(#131)で私が言いたかったことなのですが、腑に落ちない読者の方のために説明を加えましょう。

1 スペインの形成

スペイン王国は、アラゴン王(とシシリー王、ナポリ王を兼ねていた)フェルディナンドとカスティリャ女王イサベラが、二人の結婚から10年たった1479年、両国の共同統治を開始することによって生まれました。
彼らはスペインにおいてカトリック以外のすべての宗教、宗派を禁じ、初めてスペインに異端審問所を設け、いわばその論理的帰結として1492年にはユダヤ人の追放を行うとともに、イスラム教を奉じるイベリア半島南端のグラナダ王国を滅亡させ、更に(発見した新しい土地はスペインの領土にするとともにその住民にカトリックを布教するという含みで)コロンブスの遠征を認可します。
(以上、http://www.kfki.hu/~arthp/tours/spain/ferdina2.html(8月31日アクセス)による。)

それから約500年後の1988年、英国国防省の大学校に留学していた私は、帰国前に家内とスペイン旅行をしました。
そのおり、コルドバのレストランでユダヤ人の女性観光客(確か中近東在住だったと思います)と出会います。
彼女はその時、「私の家には、祖先がユダヤ人追放の時まで住んでいたコルドバの家の鍵が伝わっており、おばあさんは時々この鍵を取り出しては涙を流している。」と語り、我々は言葉を失いました。ユダヤ人追放は、スペイン経済にとって大きな損失だったと言われています(前掲サイト)。
ちなみに、スペインから追放されたユダヤ人の子孫が、ラディノ語という古いスペイン語を話す中近東のユダヤ人のセファルディンであり、イーディッシュ語をはなす中東欧出身のユダヤ人のアシュケナージと対比されます(http://www.nytimes.com/2003/09/01/international/europe/01DANU.html及びhttp://www.columbia.edu//cu/cijs/yidd//yidstud.html(いずれも9月2日アクセス)。

このように、フェルディナンドとイサベラは名実ともにスペイン・・その光と陰ともども・・の創始者でした。

ここでカスティリャ、アラゴン両国の起源を振り返ってみましょう。
話は西ゴートから始まります。
西ゴートは3世紀に、ローマ帝国版土内に侵入して略奪活動を初めて行ったゲルマン部族であり、4世紀には部族挙げて(三位一体説を否定する)アリウス派キリスト教徒となった後、遠く中国北部から西進してきたフン族に押し出される形でローマ帝国に「侵攻」(注)した一番最初のゲルマン部族であり、かつまた5世紀に入り、一番最初に首都ローマを席巻したゲルマン部族でもあります。

(注)侵攻とは言っても、その実態はローマ帝国の承認の下の移住だった。他のゲルマン諸部族のローマ帝国「侵攻」にあってもヴァンダルのケースを除き同様。ヴァンダル(vandal)という民族名が野蛮を意味するようになったゆえんがお分かりか。

その後、西ゴートは更に西方に向かいます。そしてフランスのアキテーヌ地方やイベリア半島を支配します。
当時のイベリア半島の住民は、殆どが他地域からの流入民であるケルト、フェニキア、ギリシャ、カルタゴ、及びローマ人であり、ローマ文明が花開いていました(このくだりのみhttp://www.wikipedia.org/wiki/Spain#History(8月29日アクセス)による)。
西ゴートは、かつての西ローマ帝国内のその支配地の独立を西ローマ帝国によってゲルマン部族としては最初で最後に認められるのですが、その475年から、イスラム教を奉じるウマイヤ朝に滅ぼされる711年までの長期間にわたって、イベリア半島の過半を支配し続けます。この間6世紀末には西ゴートはキリスト教アリアス派からカトリックに集団改宗します。

要するに西ゴートは、他のゲルマン部族に先駆けてローマ帝国へ「侵攻」し、ローマ化したいたところの原住民を支配し、その後、やはり他のゲルマン部族同様カトリックへの集団改宗を行ったわけです。すなわち、ゲルマン民族の大移動以降、西欧文明のいわゆる三要素であるところのゲルマンとローマないしカトリック(キリスト教)の融合、が西欧地域全般にわたって進行して西欧文明が誕生するのですが、その先鞭を切った地域の一つが西ゴートが支配していたイベリア半島だったということです。
(以上、西ゴートについてはhttp://www.wikipedia.org/wiki/Visigoth(8月29日アクセス)による。)

さて、前述したようにウマイヤ朝によって西ゴートは711年に滅ぼされるのですが、西ゴートの貴族ペラヨ(Pelayo)は抵抗を続け、やがてスペインの西北部にアステュリアス王国を建国します。
そしてこの王国はレコンキスタ(失地回復)を唱え、イスラム教徒支配地域を奪還しながら南進し、次第に国土を拡大していきます。
アステュリアス王国のレコンキスタの旗は、後継のレオン王国(10世紀)、そしてそのまた後継のカスティリャ王国(13世紀)に引き継がれていきます。平行してアラゴン王国(11世紀)やポルトガル王国(13世紀)でもレコンキスタが行われていきます。
ちなみに、このアステュリアス王国からレオン王国、そしてカスティリャ王国までの歴代国王、またポルトガルの歴代国王はすべてペラヨの子孫ですし、アラゴン王国もやがてこの家系の掌握するところとなります。ですからイサベラとフェルディナンドも親戚の間柄でした。(アステュリアスについてはhttp://www.wikipedia.org/wiki/Pelayo及びhttp://www.wikipedia.org/wiki/Kingdom_of_Asturias(いずれも8月29日アクセス)、アラゴンについてはhttp://www.wikipedia.org/wiki/Aragon(9月2日アクセス)、ポルトガルについてはhttp://www.onlipix.com/kings/portugal/general.htm(9月2日アクセス)、フェルディナンドについては冒頭に掲げたサイト)

このイベリア半島におけるレコンキスタ(8世紀??1492年)は、同じくイスラム圏に対して行われた十字軍(1095??1314年。http://www.historymole.com/cgi-bin/main/results.pl?type=theme&theme=Crusades(9月2日アクセス))や、ドイツ騎士団(Teutonic Orders)によってバルト海沿岸の非キリスト教徒や正教徒に対して行われた北方十字軍(Baltic Crusade。11世紀から15世紀初頭http://depts.washington.edu/baltic/papers/crusades.htm(9月2日アクセス)。)の先駆けとなったものであり、十字軍や北方十字軍と同様、レコンキスタ自身も全西欧(と言って悪ければ西欧を支配するゲルマン諸部族)挙げての営みでした。そのことは、11世紀にレコンキスタに参加し、当時のレオン王兼カスティリャ王から、将来ポルトガル王国に発展するところの領土を与えられた、ブルグンド公エンリケ(=アンリ=ヘンリー)が、後に第一次十字軍にも加わったことが如実に示しています(http://historymedren.about.com/gi/dynamic/offsite.htm?site=http%3A%2F%2Fwww.thornr.demon.co.uk%2Fkchrist%2Fkings.html。8月30日アクセス)。私はこれらを総称して第二次ゲルマン民族大移動ととらえるべきではないかと考えています。

つまり、スペインはローマ帝国内への第一次ゲルマン民族大移動による西欧文明の生誕の一環としてその原型が形作られ、第二次ゲルマン民族大移動の中から、その終わり頃に生誕したわけで、西欧文明の生誕と西欧文明の領域的発展のそれぞれ先駆的役割を果たした、ということになります。

スペインは西欧そのものだ、ということをご理解いただけたでしょうか。

(続く・・次回はラテンアメリカが西欧そのものだということをご説明したいと思います。)

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