太田述正コラム#0215(2003.12.24)
<天皇家の歴史観(その2)>



 (前回のコラムで、「日支事変」は「支那事変」(当時の日本政府による正式名称)に改めました。なお、後で気がつきましたが、「上海事変」ならぬ「上海事件」というのは、昭和天皇の使われた表現です(「昭和天皇独白録」文春文庫34頁)。)



 要するに陛下は、支那において日本人が被害を受けたことが支那事変につながって行ったと示唆しておられると私は考えるのです。



 この日本側が被害者だったというスタンスは、ご発言とお答えの全体を通じて貫かれています。
 先の大戦・・当然のことながら、大東亜戦争とも太平洋戦争とも言っておられません・・で(支那人等の死者の数がはっきりしないということもありますが、)日本人の死者の数だけを具体的に挙げられつつ、日本人も外国人も「生命が失われ」と客観的な言い方をされた上で、戦後の原爆後遺症やシベリア抑留、或いは沖縄戦での被害や沖縄の本土復帰が遅れたことに言及されており、これは「日本」の天皇だからそのような言い方をされた、という域を超え、支那事変の相手方たる中国国民党と中国共産党、とりわけ先の大戦の主たる相手方たる米国とソ連を批判されている、としか私には受け止められないのです。



 これに対し、日本の国内の事件に対しては陛下の暖かいまなざしを感じます。
 「5・15事件や2・26事件があり、・・政党内閣も終わりを告げ・・首相、前首相、元首相、あわせて4人の命が奪われるという時代」の背景として「厳しい経済状況下での国民生活、冷害に苦しむ農村」を挙げておられるくだりです。



 以上の解釈については、私の思い入れが過ぎているとは思いません。
 多分、間違いなく陛下の真意をとらえているはずです。
 というのは私は、ホンネをストレートに語れない中で、微妙な言葉遣いや話の構成の行間にホンネを託す、という作業を二度にわたって防衛白書(1982年と1999年)の編纂作業で行った経験があり、同じような立場にある他人の文章や発言のホンネを汲み取ることにかけてはちょっと自信があるからです。
 陛下は、二度とないかもしれない機会をとらえ、相当のご決意を持って、日本国民に対し、ご自分の生涯を振り返る形でご自身の、ひいては天皇家の歴史観を吐露されたのでしょう。



 陛下にはまだ皇太子であらせられた1976年に、東宮御所で開かれた、国家公務員を対象にした政府留学生制度で二年間留学して帰国した者を対象にした茶話会に招かれ、お目にかかったことがあります。その折に、殿下は出席者の一人ひとりとお話をされたのですが、笑顔を絶やさず各人と実に的確な質疑応答をされ、公務に何と真摯に取り組む方かと思いました。
 その時の出席者の一人のN・・私と同じくスタンフォード大学に留学・・は後日、改めて一人だけ再び東宮御所に招かれ、皇太子ご一家から歓待を受けたと本人から聞きました。Nは政治学者を志し始めていた古風な日本主義者で一種の天才でしたが、二言三言話をかわしただけでNに注目された皇太子殿下の眼力の鋭さに舌を巻くと同時に、色々お悩みがあったと拝察されますが、次に天皇となられる殿下の自己研鑽ぶりとお子様達の啓発に向けてのご努力に感じ入ったものです。



 世界で最も古い日本の君主制は、このように使命感を持ち、自己研鑽を怠らず、なおかつ「適切」な歴史観を持った天皇が、「ほぼ」歴代続いたからこそ維持されてきたのです。