太田述正コラム#0464(2004.9.6)
<ベスラン惨事とロシア(その1)>

1 始めに

北オセチアで発生し、600人にもなろうかという死者と数百人の負傷者を出したベスラン(Beslan)での人質事件は、過去と現在のロシアの実相を改めて世界の人々の前にさらけ出すことになりました。
この事件の報道では、めずらしく日本のメディアも健闘したと思います。
この際、日本のメディアも参照しつつ、この惨事を総括しておきましょう。

2 過去の経緯

 最初に、チェチェン紛争のこれまでの経緯をざっと振り返ることにしましょう。

 17世紀末から19世紀初頭にかけてチェチェン人(Chechen)(注1)はイスラム教に改宗します(http://chechen.8m.com/history/chechens.htm。9月5日アクセス)。

 (注1)チェチェン人は現存する世界最古の民族の一つであり、イングーシュ人(Ingush。チェチェン人とほぼ同じ時期にイスラム教徒に改宗)と近縁関係にある(http://www.chechnyafree.ru/index.php?lng=eng&section=historyeng&row=1。9月5日アクセス)。チェチェン人居住地域をchechnyaと称する。ソ連時代にはイングーシュ居住地帯のIngushetiaとともにChechen-Ingush Autonomous Soviet Socialist Republicを構成していた。

 南進してきたロシアとチェチェンとの衝突が1722年に始まります。
 1830年、ロシアはチェチェンに本格的侵攻を開始し、1859年にチェチェンを完全に平定します(注2)。

 (注2)文豪トルストイ(Leo Tolstoy。1828??1910年)は1850年代にこの平定作戦に従軍しており、村落を破壊され、虐殺されるチェチェン人を目の当たりにして、チェチェン人のロシアに対する感情について以下のように記している。
"No one spoke of hatred for the Russians,・・・The feeling which all Chechens felt, both young and old, was stronger than hatred. It was...such a revulsion, disgust and bewilderment at the senseless cruelty of these beings, that the desire to destroy them, like a desire to destroy rats, poisonous spiders and wolves, was as natural as the instinct for self-preservation."

 1917年にロシア革命が起きると、チェチェンは独立を宣言し、イスラム神政政府が樹立されますが、ソ連ができてからは、その巧妙な工作に屈し最終的にソ連に再併合されます。
 1944年には、ナチスと通じたとして、イングーシュ人全員とともに、当時のチェチェン人は全員、50万人以上がカザフスタンに強制移住(deportation)させられました。荷車をひいたその道中で多数が死亡し、カザフスタンにたどりついた人々も、過酷な環境の下で多数が亡くなりました。こうして強制移住中に都合20万人以上が死亡したと言われています。
 1956年に至って、フルシチョフ(Nikita Khrushchev。1894??1971年)はスターリン(Joseph Stalin。本名Joseph Vissarionovich Djugashvili。1879??1953年。チェチェンの南隣のグルジア生まれ。)批判の一環としてその強制移住政策を批判し、翌1957年から、生き残ったチェチェン人の大部分は故郷に戻ることができました。しかし、イスラム信仰は厳しく規制され、モスク再建が認められたのは1970年代に入ってからでした。
 1991年にソ連邦が分裂・崩壊すると、またもや強制移住させられるという噂が流れたこともあり、チェチェンは一方的にロシアからの独立を宣言します。しかしこれは新生ロシア側に、ソ連邦に次いで今度はロシアも分裂・崩壊する、という悪夢を呼び起こし、(チェチェンがカスピ海の油田地帯と黒海を結ぶパイプラインが通っている戦略的要衝であることもあり、)独立は断固拒否されてしまいます。もっとも、チェチェンが事実上独立した状況は続きました。
 1994年に至って、ロシアのエリティン(Boris N. Yeltsin。1931年??)大統領は、親ロシア住民による蜂起を装ってチェチェン政府の転覆を図りますが蜂起は失敗し、つかまった連中は全員ロシアの諜報機関に雇われたロシア人であることがばれてしまいます。やむなくエリティンは4万人のロシア軍をチェチェンに派遣し、軍事力によるチェチェンの独立つぶしを図りますが、ロシア軍は苦戦を強いられ、チェチェン側に少なくとも8万人、ロシア軍に14,000人の死者(http://www.cdi.org/russia/245-14.cfm。9月6日アクセス)を出しつつ、1996年に休戦協定がむすばれ、ロシア軍は撤退します。
 (休戦のきっかけとなったのは、1995年に、ロシアのブディオノフスク(Budyonnovsk.)という町の病院に医師や妊婦・新生児を含む患者を人質にチェチェンの抵抗勢力が立て籠もった事件です。ロシア治安部隊は突入をあきらめ、チェチェンでの休戦・ロシア軍の撤退を約し、人質は解放され、抵抗勢力は無事逃走しました。)
 しかし、戦争で荒廃したチェチェンでは不安定な状態が続きます。
 そして1999年に、モスクワともう一カ所でアパートが爆破され、300人以上の死者が出ます。(更に一カ所は未遂に終わった。)また、ほぼ同じ時期に、武装したチェチェン人グループが隣接するダゲスタン(Dagestan)に侵入し数カ村を数週間に渡って占拠し、チェチェン非難の声がロシアで高まります。
 しかしこれらの事件は、ロシアの諜報機関がチェチェンの過激派をそそのかし、資金援助を行ってやらせたのではないか、それどころか諜報機関が一部直接手を下したのではないか、という疑惑が取り沙汰されています。
エリティンから首相に任命されたばかりのプーチン(Vladimir V. Putin。1952年??)は、これらの事件に藉口して、改めてロシア軍をチェチェンに派遣し、「かいらい」政権を樹立します。
これでロシア国民の人気を博したプーチンは、エリティンから大統領の後任に指名され、翌2000年の選挙でロシアの大統領に就任することになります。
以後、チェチェンの抵抗勢力は、チェチェン及びその周辺におけるロシア軍や「かいらい」政権に対するゲリラ戦や、チェチェン内やロシアにおけるテロ活動を実施し、現在に至っているのです。
(以上、特に断っていない限りhttp://slate.msn.com/id/2106287/及びhttp://www.pbs.org/newshour/bb/europe/chechnya/history.html(どちらも9月5日アクセス)による。)

(続く)