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太田述正コラム#0503(2004.10.15)
<米国とは何か(続)(その2)>

 (コラム#501と502に訂正等を加え、ホームページ(http://www.ohtan.net)の時事コラム欄に再掲載してあります。)

 (1)キリスト教
 米国の憲法学者と政治史家達によって20年前に行われた研究によると、独立戦争の開始から1812年の米英戦争までのいわゆるFounding Era において作成された15,000の文書中の引用3,154を調べたところ、最も多く引用されていたのは聖書であり、最も多く引用されていた政治哲学者であるフランスのモンンテスキュー(Charles-Louis de Secondat, Baron de Montesquieu。1689??1755年)(注1)やイギリスの法律家ブラックストーン(Sir William Blackstone。1723??80年)(注2)の4倍近く、そしてイギリスの政治哲学者であるロック(John Locke。1632??1704年)の約12倍に達しています。

 (注1)モンテスキューは、主著「L'Esprit des lois(法の精神)」において、三権分立を唱えたことは有名だが、政治と宗教(キリスト教)の分離を否定していたことも忘れてはならない(http://www.newadvent.org/cathen/10536a.htm。10月14日アクセス)。これらは、いずれも彼の目でイギリスの政治制度を理念型化したものと言えよう。(私に言わせれば、三権分立は彼がイギリスの二権分立の政治制度を誤解したものだし、政治と宗教の分離の否定は、彼がイギリスの国教会制度の背後にあるイギリス的宗教意識並びにそれと裏腹の関係にあるイギリスの政治における反カトリシズム的伝統を正しく理解していなかったからだと思われてならない。)(三権分立については、http://www.fordham.edu/halsall/mod/montesquieu-spirit.html(10月14日アクセス))
 
 ここではさしあたり、聖書の引用回数のずばぬけた多さに注目しましょう。
 米国建国の父達の宗教への言及について、米国のノヴァク(Michael Novak)が挙げる例は次の通りです。
ワシントン(George Washington):「理性と経験は、宗教的諸原理抜きにして国民道徳が確立(prevail)することを期待することは不可能であることを示している」、「政治的繁栄をもたらすあらゆる性向と習慣のうち・・宗教と道徳性は不可欠だ」(退任演説)、アダムス(John Adams):聖書は「世界中で最も共和制的な本だ」、ラッシュ(Benjamin Rush):「キリスト教徒は共和制支持者たらざるをえない」、ジェファーソン(Thomas Jefferson):「我々に生命を与えてくれた神は同時に我々に自由も与えてくれた」、フランクリン(Benjamin Franklin):「専制君主への叛乱は神への帰服(obedience)だ」
ノヴァクは、建国の父達による公的な宗教的行為の例も挙げています。
ア 1774年9月の13州の代表がフィラデルフィアに集まって開催された最初の大陸会議(Continental Congress)の際、チャールスタウンが英本国軍の攻撃を受けているとの報が入ると、(宗派が色々なのにどうするのだとの一悶着を経た上で、)英国教会の神父たる代表の主導で全代表が神への祈祷を行った。(この故事とは直接関係はないが、米連邦議会においては、各会期の始めに祈祷が行われる。なお、政府の政治的任命ポストに就く時に、聖書に手を置いて神への誓約が行われるのはご存じの通りだ。)
イ 1975年6月に大陸軍(Continental Army。13州合同軍)が作られた時、司令官のワシントンは、毎朝全部隊で祈祷が行われるべきこと、各部隊に従軍牧師(Chaplain)を置くべきことを決定した。
ウ 1776年7月の独立宣言は、北米大陸への植民の際に神への誓約の形で定められたメイフラワー号規約(Mayflower Compact)等に倣ったそれらの拡大版にほかならず、宣言文の中に神への言及がLawgiver、Creator、Judge、Providenceという四つの属性で何度も登場する。
エ 1876年8月、大陸軍がロングアイランドで二倍の兵力の英本国軍(傭兵であるドイツのヘッセ(Hesse)軍を含む)に包囲されたにもかかわらず、突然霧が出たおかげで奇跡的に全軍が逃れることができ、ワシントン等はこれが米国独立を嘉する神の加護の表れと考えた。
オ 1776年12月の大陸会議は、独立戦争と不作による艱難辛苦に耐え、士気を向上させるために、11日を断食と悔悟の日とし、13州全域で祈祷が行われた。
カ 独立戦争が終わりに近づいた時点で大陸会議が神への感謝を捧げるよう13州全域に呼びかけた故事にならい、ワシントン米初代大統領は、Thanksgiving Dayの式辞(Proclmation)を発し、以後毎年同様のことが行われるようになった。(後にリンカーン大統領が、廃れかけていたこの習慣を復活し、1863年に11月26日をThanksgiving Day(感謝祭)の日と定めた。)
 それまでも、トックビル(Alexis de Tocqueville)を含め、様々な人々が、フランス革命は宗教と自由とは相容れないという思想の下で行われたのに、米国独立革命は宗教を排除しない形で行われたことに疑問を投げかけてきたのですが、宗教を排除しないどころか、宗教の強い影響の下で独立革命が行われたことが明らかになったわけです。
 要するに、それまでもっぱらアングロサクソン的自由の旗を掲げて行われたと考えられてきた米国独立は、実は同時にキリスト教の強い影響の下に行われたということです。換言すれば、米国独立の思想的源泉は、アングロサクソン文明だけではなく、これと対立する欧州文明、より正確には私の言うところのプロト欧州文明(注2)にも求められる、ということになるでしょう。

 (注2)プロト欧州文明とは、キリスト教(カトリシズム)を体現する教会と欧州の諸国家が提携しつつ、各国家が勢力伸張を競い合った文明であり(コラム#61、65、231、457)、欧州文明とは、欧州の諸国家が各種イデオロギー(ナショナリズム・共産主義・ファシズム)を手段として勢力伸張を競い合った文明だ(多すぎるのでコラム番号は記さない)。そしてこの両者をつなぐ移行形態が、ルイ13、14世時代のフランス絶対王制であり、フランスがカトリシズムを手段としてその勢力伸張を図った(コラム#100、127、129、148、162、498)。

そうだとすれば、米国建国の父達が、わざわざイギリスの政治哲学者であるロックではなく、ロックの祖述者に過ぎないプロト欧州時代末期における自称イギリス通の欧州人(フランス人)であったモンテスキューの著作を手がかりにして新しい国家である米国の政治体制を構築しようとしたことは、不思議でも何でもないことになります。

(続く)

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