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太田述正コラム#0511(2004.10.23)
<米国独立が決まった瞬間?(その2)>

3 どうして独立戦争に勝てたのか

 どうして北米植民地側は、トレントン・プリンストンの戦い、ひいては独立戦争に勝つことができたのでしょうか。
 第一に、7年戦争(フレンチ・インディアン戦争)が1763年に終わったばかりであり、この戦争を英本国軍とともに戦った各州の民兵組織が維持されており、武器弾薬も豊富であったことです。だからこそ、大陸軍が編成できた(注1)のですし、ゲリラ活動も容易にできたわけです。そもそも、大陸軍やゲリラの武器も戦術も英本国軍ゆずりであり、植民地側は英本国軍の武器も戦術も熟知していました。植民地側の兵士やゲリラの練度も、英本国軍や傭兵といったプロの兵士と比べてそれほど遜色はありませんでした。

(注1)もっとも、大陸軍はさまざまな問題を抱えていた。
大陸軍は各州の民兵の寄せ集めで、ワシントンは各州にカネや兵士の供出を命ずる権限を持っていなかった。メリーランド州兵が大陸軍に対し、体罰の禁止と除隊の自由を条件として参加したことが象徴しているように、ワシントンは「好きなときにやってきて好きなときに去っていく」部下をなだめすかして統率しなければならなかった。例えば、トレントン・プリンストンの戦いの最中の1776年の年末で殆どの州兵の任期が終わったため、ワシントンは、これらの民兵にカネを支払って任期の6週間延長に応じてもらったり、これらの民兵に頭を下げてもう一任期つとめてくれるよう頼んで回ったりしなければならなかった。
     また、当然のことながら、にわか作りの大陸軍の海軍は英本国海軍の敵ではなかった。

 第二に、植民地側に地元の利があったことです。
英本国海軍が大西洋の制海権を握っていたとはいっても、当時の英国と北米植民地の距離は大きく、適時適切な本国からの武器弾薬の補給は困難でしたし、(たとえその気があったとしても)増援部隊の派遣も困難でした。また、兵力に制約があった英本国軍側は、部隊を抽出し、制海権を握っていた海上を輸送し、植民地側の背後をつくという作戦をとることもままなりませんでした。
これに対し植民地側は、独立派を中心に住民の間からいくらでも兵士やゲリラ(後述)へのなり手が出てきました(注2)し、どうしても輸入に頼らなければならない一部の物資はともかくとして、武器弾薬の確保にも基本的に苦労することはありませんでした。

(注2)独立戦争期間中を通じ、植民地側で兵士やゲリラになった数は、出入りがあったとはいえ、20万人の多きにのぼる。

また、外からやってきた軍隊と地元住民の間で(英本国側がヘッセ軍という外国人からなる傭兵を用いたこともあずかって)典型的な対立の図式が生まれ、本来の独立派以外の住民も含め、ゲリラが自然発生し(注3)、このゲリラ(非正規軍)と大陸軍(正規軍)が、次第に役割分担しつつ連携して英本国軍と戦うようになったことも重要です。

 (注3)英本国部隊は、大陸軍の捕虜に食事を与えなかったり女性達を強姦したり慰安婦にしたりしたし、ヘッセ部隊は捕虜を処刑したり捕らえた従軍牧師をなぶり殺しにしたり、家に押し入って略奪したりした。カネは払ってくれるものの、食糧等の徴用や、家屋の収用も住民の怒りを呼んだ。
 この結果、ニュージャージー州やペンシルバニア州で自然発生的にゲリラ活動が起こり、英本国軍の部隊は突然襲撃を受けたり、一人でいる将校や兵士が狙撃されたりするようになった。

 例えば、トレントンの戦いが始まる前に、既に現地のヘッセ部隊は、連日のゲリラとの「戦闘」で消耗しきっており、このことが、(奇襲を行ったことと兵力で上回っていたことともあいまって、)負けず劣らず心身ともに疲労困憊していた大陸軍に起死回生の勝利をもたらしたと言えるでしょう。
 第三に、この戦いが自由主義国と「旧約聖書的キリスト教に媒介された選民意識」(コラム#504)という熱狂に冒された人々を主力とする勢力との間の戦いだったことです。
英本国側としては、あくまでも戦争は合理的な営みであって、人的財政的コストが戦争目的と釣り合わなくなれば、戦争継続は困難となるのに対し、植民地側は宗教的確信に基づき、コストを無視して無限に戦争を継続する用意がありました(注4)。

(注4)北米植民地の13州の住民のうち、独立派、本国派、中間派がそれぞれ約三分の一ずつだったとされている(典拠失念)。しかし、各州の議員等リーダー達の間では独立派が多数を占めていた。譬えが適切であるかどうかはともかく、現在の日本で創価学会員が日本人の三分の一を占めていれば、間違いなく公明党単独政権ができているであろうことを考えれば、当時の北米植民地の状況は理解できるのではないか。

これに関連し、英本国のリーダー達の中には、「同胞」である北米植民地の反英本国派とその主張に対して理解がある心優しい人がたくさんいたことも忘れてはなりません。例えば、トーリー(保守党)支持者のエドマンド・バークですら植民地独立支持の論陣を張りましたし、ホイッグ(革新党)の重鎮で首相を二度も務めたピットも亡くなる瞬間まで下院で植民地を独立させよと熱弁をふるいました(いずれも典拠失念)。(それどころか、英本国軍司令官のハウ兄弟にしても、それに次ぐコーンウォリスにしても、(たまたま三人ともイートン校出身者ですが)いずれもホイッグ(革新)支持者であり、心情的には独立派のシンパでした。)
 第四に、以上列挙してきた不利な要因は要因として、英本国軍の陸上総司令官のハウの采配に問題があったことが決定的だったようです。
ハウは住民の政治的鎮撫工作に力を入れすぎ、軍事攻勢面で遅れをとったと指摘されており、もう少しハウが果敢に攻撃を継続しておれば、大陸軍は1976年11月までには壊滅していたはずだと言われています。(この采配に上記ハウの心情が影響していなかった可能性は否定できません。)

4 終わりに代えて・・米独立戦争とイラクの現状

 このように見てくると、米独立戦争はイラクの現状を考えさせるヒントに満ちている感を否めません。
 まず両者は、その時点における世界の覇権国であるところの世俗的な外来勢力と宗教原理主義的な地元過激派勢力との衝突である点が共通しています。
 その上で、前者では外来勢力が敗れたけれど、後者では地元過激派勢力が勝つ可能性は皆無であることが容易に推察できます。
 後者においては、地元過激派勢力側に既に正規軍は壊滅して存在せず、外来勢力が地元過激派勢力を兵力・装備・練度において圧倒的に上回っており(注5)、補給面でも外来勢力は、少なくとも物資に関しては全く問題がないのに対し、地元過激派勢力には著しい制約があるからです。しかも、前者の場合とは異なり、後者では地元過激派勢力は基本的に地元の一部地域(スンニ派地区)しか「代表」していないからです。

 (注5)イラクの不穏分子の勢力は、最近見積もりが上方修正されたが、それでも8,000人から12,000人、積極的シンパないし隠れた共犯者を入れても20,000人に過ぎない。もっとも、この数字にサドル派の民兵が含まれているのかどうかは定かでない。ただ、旧フセイン政権系やサウディ系のカネで資金面では潤沢だと言われている(http://www.taipeitimes.com/News/front/archives/2004/10/23/2003208052。10月23日アクセス)。これに対し、「連合軍」は9月21日現在で、米軍が約135,000人、それ以外が約24,000人(http://www.globalsecurity.org/military/ops/iraq_orbat_coalition.htm。10月24日アクセス)、計約160,000万人にのぼる。このほか、イラク暫定政府の治安部隊がいる。

 その割には外来勢力の中心である米軍は手こずっていますが、これは自分たちの独立戦争の基本的構図(自分たちの方が実は時代遅れの宗教原理主義者だった!)を米国の人々が全く理解しておらず、その教訓を生かすことができていないからだ、と私は思います。

(完)

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