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太田述正コラム#0566(2004.12.17)
<ブルガリアのシメオン首相(続)>

 (父王の死は、ヒットラーとの会見直後の不審死でした。)
 1944年の共産党系によるクーデターでシメオンの三人の摂政達とブルガリアの多数の知識人が殺害されますが、その後もシメオンは国王にとどまっていました。
 しかし、その2年後に行われた、しくまれた国民投票によって、シメオンは妹や母の王妃とともにブルガリアを追われます。
 一家は、母たる王妃の父親であって(事実上)最後のイタリア国王であるヴィクトル・エマヌエル3世(Victor Emmanuel ??。1869??1947年)(注2)が亡命していたエジプトのアレキサンドリアに身を寄せますが、1951年にスペインのフランコ政権が受け入れを表明したことに伴い、マドリッドに落ち着きます(注3)。

 (注2)イタリア国王(1900??46年)、エチオピア皇帝(1936??43年)、アルバニア国王(1939??43年)。不適切な作為(1922年にムッソリーニを首相に任命したこと・法王はローマにとどまったというのに1943年の連合軍攻撃下にローマから脱出したこと)と不作為(1922年のファシスト武装隊のローマへの進軍をやめさせなかったこと・イタリアでの連合軍の勝利が決定的となった1943年に退位しなかったこと)により、イタリア王制の終焉をもたらした。(http://en.wikipedia.org/wiki/Victor_Emmanuel_III_of_Italy及びhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%83%83%E3%82%BD%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8B(どちらも12月17日アクセス))
 (注3)1952年には、エジプトでナセルら青年将校団による革命が起こり、ファルーク(Farouk)国王が海外追放となるので、いずれにせよ早晩シメオン一家はエジプトから去らねばならなかったろう。

 そしてシメオンはスペインと米国で教育を受けます。
 おかげでシメオンは、ブルガリア(故郷の言葉。彼のブルガリア語は古風だと言われている)のほか、英(米国で教育を受ける。また最有力な親戚が英国の君主)・仏(フランス語は欧州王族・貴族の共通語。また有力な親戚がベルギーの君主)・独(ドイツは本家の地)・伊(イタリアは母親の里)・西(第二の故郷スペインの言葉。スペインは奥さんの出身地でもある)の各国語を自在にあやつり、アラビア語(少年時代エジプトに5年間滞在)とポルトガル語(ポルトガルはかつて有力な親戚が国王だった)もできる人間として人となります。
 成人してからは、彼はスペインと米国で、軍需産業のスペイン支社の会長職のほか様々な仕事に従事します。
 この間、シメオンは故国ブルガリアについて強い関心を抱き続け、世界中のブルガリア移民達と仕事で協力したり彼らを援助したりしてきました。
 結婚は1962年で相手はスペインの貴族の娘でした。
 シメオンは、1996年に故国ブルガリアへの50年後の帰還を許され、国民の大歓迎を受けます。
 1998年にはブルガリアの憲法裁判所が、旧国王家の私有財産をシメオンらに返還する判決を下します。
2001年に彼は政治組織(National Movement Simeon II)をつくり、3ヶ月後の同じ年に行われたブルガリアの総選挙でこの組織がちょうど半数の議席を獲得し、トルコ系政党と連合政権をつくり、シメオンは首相に就任します。
 ブルガリアは、イラク戦争後にイラクに500名の治安維持部隊を派遣し、今年NATO加盟を果たします。そして2007年にはEUに加盟する予定です(注4)。
(以上、特に断っていない限りhttp://www.government.bg/English/PrimeMinister/Biography/http://www.setimes.com/cocoon/setimes/xhtml/en_GB/infoCountryPage/setimes/resource_centre/bios/saxe-coburg-gotha_simeon?country=bulgariahttp://www.thepathtopeacefoundation.org/saxe-coburg_gotha.htmlによる。)

(注4)現在のEU拡大候補国はブルガリア・ルーマニア・トルコの参加国だが、ブルガリアとルーマニアは2007年の加盟が予定されているのに対し、トルコは正式な加盟交渉が始まったばかりだ(http://europa.eu.int/comm/enlargement/enlargement.htm。12月17日アクセス)。

4 感想

 以上のシメオンの足跡からうかがえるのは、(米国滞在期を除き、)第一に、シメオンがローマ帝国の領域内を生活圏としてきたこと(ブルガリア地方もかつてはローマ領トラキア(Thrace)だった)、第二に、ゲルマン民族のリーダー達の子孫がいまだに欧州で強い影響力を持ち続けていること、であり、とりわけサックス・コーブルグ・ゴータ(注5)家の人々の活躍ぶりです。

 (注5)日本での報道では、シメオン首相の姓をサクスコブルクゴツキとしている(毎日前掲)が、「ゴツキ」というのは「ゴータ」のスラブ語尾形なのだろうか。

 同時に改めて痛感したのは、ブルガリアもそうですが、欧州の一つ一つの国々が背負っている歴史の重さとユニークさです。
 シメオン2世殿下のブルガリア首相としての今後の一層の活躍を祈念させていただきます。

(完)

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