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太田述正コラム#7462005.6.7

<厳しく再評価される毛沢東(その3)>

 さて、そもそも共産党が長征で陝西省をめざしたのは、ソ連の近くを根拠地にして、ソ連の大規模な支援を得るためだったが、これに完全に成功したのが、日本の敗戦後の1947年から1948年にかけて満州においてだった。

 ソ連は日本の残した満州の重工業施設を中国共産党に引き渡し、更に日本軍捕虜数万人を中国共産党に送り込み、共産党軍の訓練にあたらせるとともに、共産党軍の空軍の設立を手伝わせた。日本軍捕虜の中には、共産党軍とともに国民党軍と戦わされた人々もいる。

 1946年の夏に米国が国民党と共産党との間に入って4ヶ月間の休戦を実現したことが、共産党の最終的な勝利につながった。この間共産党軍は、ソ連から大規模な軍事物資等の支援を得て、態勢を全面的に整備することができたからだ。

 こうして1948年までには中共は1億6,000万人の人口を支配するに至った。富農や地主は抹殺されなければならないものとされ、その時点までに、数十万ないし100万人の富農や地主が殺害されるか自殺に追い込まれた。

 1950年1月の中共軍のチベット侵攻・占領とそれに伴う強制的同化政策は、チベット人男子半分に死をもたらした。

 また毛沢東が、同じ年の10月に中共軍を朝鮮戦争に介入させたのは、米軍との戦いで中共軍に天文学的な損害が生じることを承知の上で、スターリンにゴマを刷り、中共の軍需産業建設にソ連の一層の支援を取り付けることを目論んだためだ。

 1958年8月の金門(台湾)攻撃は、中共のために米国との間で核戦争に引きずり込まれることを回避したいソ連から核兵器技術を獲得するためだった(注8)。

 (注8毛沢東は金門攻撃の折りに主治医李志綏に「台湾の存在は国内の統一の維持に役立っており、金門、馬祖も奪う必要はない。」と語っている(http://www.eva.hi-ho.ne.jp/y-kanatani/minerva/Review/r20000514.htm。6月6日アクセス)。

 また毛沢東は、ベトナムに対米戦争をエスカレートさせることを促したが、これは米国をベトナムにかかりきりにさせることで、中共の核施設に対する米国の攻撃を回避するためだった。

 毛沢東の号令一下で始まった大躍進政策(Great Leap Forward1958?59年)は未曾有の大飢饉をもたらし、4年間で3800万人の餓死者を出した(注9)(注10)。

 (注9)毛沢東は、「当時世界第2位の経済大国であったイギリスを追い越すという壮大な計画を立て、市場原理を無視して人民に厳しいノルマを課し、ずさんな管理の元で無理な増産を指示したため却って生産力低下をもたらした。この時、無理なノルマを達成できなかった現場指導者たちは水増した成果を報告した。そして、その報告を受け取った毛沢東は更なる増産を命令するという悪循環に陥っていったのである。また・・経済生態系のシステムを無視した、単純かつ一面的な計画を押し付けたことも、甚大な被害を招いた。・・有名な失敗例を挙げると、鉄鋼の大増産を目指して原始的な溶鉱炉を用いた製鉄が全国の農村で展開されたが、使い物にならない粗悪品しか産出されず、資源を無駄に浪費する結果となった。しかも農民が大量に借り出されたため、管理が杜撰となった農地は荒れ果ててしまったし、ノルマ達成のために農民の保有する鍋釜、農具まで供出されたために、地域の農業や生活の基盤が破壊されてしまった。さらに、農作物を食い荒らすスズメは悪者だとして、大量捕獲作戦が展開されたが、害虫が大量発生し、農業生産は大打撃を被った。スズメは、農作物を食べるが、同時に害虫となる昆虫類も食べ、特に繁殖期には雛の餌として大量の昆虫を消費している。生態系のバランスを無視した結果であった。・・また、ソ連からの借款(ソ連からの武器の購入や核兵器の開発のためのもの(太田))の返済に農作物を充てていたことも、極端な食糧不足につながったという指摘もある。」毛沢東は大躍進政策失敗の責任をとって1959年、国家主席を辞任した。大躍進政策については中共の教科書には一切書かれおらず、また、大躍進政策関係の用語はインターネットで検索できないような措置がとられている。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%BA%8D%E9%80%B2。6月5日アクセス)

 (10)大躍進政策を始める直前の1957年には毛沢東は百花斉放(Hundred Flowers Campaign)を唱え、検閲を緩和し、中共権力への建設的批判を許した。しかし、批判の噴出にたじろいだ毛沢東は、再び弾圧に転じ、300,000人もの知識人が殺害・投獄・解雇・再教育の対象となった。

 

 毛沢東の生涯の最後を飾るのが、文化大革命の破壊と大殺戮であったことはご承知の通りだ。

4 終わりに

 毛沢東は1976年9月9日に死去しましたが、現在もなお、その巨大な遺影は天安門広場を飾り、そのミイラ化された亡骸は天安門広場の真ん中の建屋に安置されています。

 毛沢東の文化大革命当時の罪状をありのままに展示した博物館はできたとはいえ、ワイルドスワンは発禁されたままですし、今回のチャン(張戎)らによる毛沢東の伝記の支那語版(作成中)が解禁されることもまたありえないでしょう。

その厳しい毛沢東批判や中共の体制批判がしばしば香港等のメディアで取り上げられている李Li Rui。毛沢東の元秘書)のような人物が、「毛沢東の手法は過去の皇帝達よりも過酷だった。彼は人々の心までも支配しようとしたからだ」と語りつつも、選ばれた共産党員だけが許された高級住宅街に住み、毛沢東は7割方正しかった、という党公式見解を信じている(フリをしている?)限りは、毛沢東の真の姿が中共の人々に明らかにされる日はまだまだ遠そうです。

このように現在の中共当局が、毛沢東崇拝の幕を決して下ろそうとしないのは、共産党支配の正当性がゆらぐのを恐れる以上に、自分達自身が毛沢東と同じ穴の狢であることを知られたくないからなのでしょう。

トウ小平が、ああも簡単に共産主義を投げ捨て、資本主義へと舵を切れたのは、毛沢東同様、トウ小平自身、イデオロギーなど全く信じておらず、あるのは自らの権力追求欲だけだった、と解すれば不思議でも何でもなくなります。

ですから、そのトウ小平が指名した江沢民や、トウ小平の遺志により江沢民の跡を襲った胡錦涛ら中共の独裁者達には、われわれは一切幻想を抱かない方がよさそうです。

いずれにせよ、毛沢東という人物がわれわれに物語っているのは、一つには絶対的な悪が勝利することがあるということであり、もう一つは、絶対的な悪が意外な結果をもたらすことがあるということです。スターリンはロシアを破壊しロシアの人々を殺戮しただけであり、ロシアはいまだにその打撃から立ち直れないでいるのに対し、もっとひどく支那を破壊し支那の人々を殺戮した毛沢東は、死後支那に高度成長をもたらしたからです。

(以上、3と4は、特に断っていない限り

http://observer.guardian.co.uk/comment/story/0,6903,1494847,00.html(5月29日アクセス)=http://www.mggpillai.com/sections.php3?op=viewarticle&artid=10729(6月4日アクセス)、http://www.guardian.co.uk/china/story/0,7369,1497274,00.html(6月2日アクセス)http://www.taipeitimes.com/News/edit/archives/2005/06/04/2003257917(6月5日アクセス)、http://www.guardian.co.uk/comment/story/0,3604,1498958,00.html(6月4日アクセス。以下同じ)、(http://books.guardian.co.uk/reviews/biography/0,6121,1498718,00.htmlhttp://www.guardian.co.uk/comment/story/0,3604,1498958,00.htmlhttp://books.guardian.co.uk/departments/biography/story/0,6000,1492173,00.htmlhttp://www.amazon.co.uk/exec/obidos/tg/stores/detail/-/books/0224071262/reviews/202-7688717-9549416http://www.zeroballet.info/supernaut/archives/000507.htmlhttp://thescotsman.scotsman.com/critique.cfm?id=582472005http://economist.com/displayStory.cfm?story_id=4008693http://books.guardian.co.uk/reviews/biography/0,6121,1499341,00.html(6月5日アクセス)による。ただし、4は私見も加味した。)

(完)

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