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太田述正コラム#8262005.8.17

<酷暑旅行記(その5)>

 (2)新薬師寺

 そもそも、一年前に引き続き、奈良を訪れたのは、新薬師寺(http://nara.e-machi.ne.jp/tmpl/kodera/shinyakushiji/)の十二神将(http://nara.e-machi.ne.jp/tmpl/kodera/shinyakushiji/12shinsyo.html)に前回痛く感動した家内が、同寺で売っていた小レプリカ(12個数)を買うためです。

 一年前と違って、十二神将のオリジナルの彩色を再現したビデオを放映していましたが、青く塗られた十二神将のお顔より、現在の色あせたお顔の方がずっといいや、と思ったのは、私も現代日本人だからでしょう。

 (3)日本の神道と仏教

  ア 始めに

 高野山や熊野三山が後で出てくる関係上、この辺で日本の神道と仏教について、私がどう考えているかを簡単にご説明しておきましょう。

 私は、かねてより、日本の歴史は縄文モードと弥生モードの繰り返しだ、と申し上げてきたところです。

 日本列島が初めて縄文モードから弥生モードに切り替わったのは、紀元前3世紀頃・・最近の研究によれば紀元前9?8世紀頃・・(注1)から、支那の人々が稲作技術や鉄器・青銅器とともに日本に移住し(http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/0725/及びhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3(どちらも8月17日アクセス))、それまで日本列島で石器を用いて狩猟採集を中心とした生活を送っていた縄文人を征服した時でした。

 (注15)紀元前770年に周が弱体化し、都を鎬京から東の洛邑に移した時から紀元前403の三つの国に分かれた時までが春秋時代と称され、それ以降紀元前221年に秦が支那を武力統一するまでを戦国時代と称する(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E7%A7%8B%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3。8月17日アクセス)。かつては戦国時代末期の戦乱を逃れて支那の人々が日本に移住したと考えられていたが、春秋時代の始まりとともに日本への移住が始まったことになる。

  イ 縄文モードへの回帰

 この時をもって「日本列島」の人類史ならぬ「日本」の歴史は始まる、と言ってもよいと思いますが、その後、次第に日本は縄文モードに回帰して行き、以下のようなプロセスで神道が成立します。

 縄文人は変化に富む日本の気候や自然から生まれた八百万の神々信仰を持っていました。そのご神体は巨岩であったり山そのものであったりしました。そして、神々は恵みをもたらすと同時に、怒りを津波や噴火などで示す存在でもありました。

 他方、支配者たる弥生人は、彼らが支那から持ち込んだ祖先崇拝と稲作とを結びつけた日神(アマテラスオオミカミ)信仰を形成して行きます。そのご神体は鏡や剣などの金属器です。

やがて弥生人は、縄文人を支配するため、前者に後者を吸収する形で現在「神道」と呼ばれる宗教体系の祖型を整えて行きます(注16)。

(注16)神道儀礼の基本は、穢れを禊・祓によって浄めることだ。穢れとは、不浄物のほかに災厄や他の世界に属するもの(死など)が含まれる。禊は自らの浄化儀礼であり、祓は他者あるいは自分を含む集団に対する浄化儀礼だ。

 そして弥生人は、天皇を首長とする祭政一致の統一国家を日本に築きます。彼らは日本に豊葦原瑞穂国(豊かに稲がみずみずしく稔る国)という別称を与え、天皇は、「水穂の国」の稲作りの主宰者として、年穀豊穣・天下泰平の神道的祭礼を行うようになります。更に、奈良時代初期、天武天皇は各氏族・皇族の記録や伝承を編纂し、神道のもととなる神話を整理し、ここに神道は国家神道として完成するのです。

 (以上、神道についてはhttp://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-30.html(8月17日アクセス)による。)

 しかし、日本はやがて再び弥生モードに切り替わって行くことになります。支那の隋・唐直輸入の律令制の採用と渡来信仰である仏教の国教化です。

(続く)

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