太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/

太田述正コラム#9222005.10.26

<ガーディアンの靖国神社ブログ(その6)>

 日本軍と共に戦ったと言えば、大戦におけるチャンドラ・ボース(Subhash Chandra Bose1897?1945年。コラム#14264)(注10)のインド国民軍が皆さんの頭にも浮かぶことでしょう。

 (10)1938?39年のインド国民会議派議長。ガンジーらと袂を分かって英国からのインドの武力独立を目指した。今年明らかになったことだが、ボースがカルカッタから脱出して姿を隠した時、英国政府は中東経由でドイツに赴くと見て諜報機関にボースを見つけ次第暗殺するように命じていた。結局ボースはソ連経由でドイツ行きに成功し、その後、ドイツの潜水艦で東アジアに渡り、日本軍がシンガポールを落として捕虜としたインド兵等をインド国民軍(Indian National Army)に組織して、日本軍と共にインパール作戦(Imphal-Kohima campaign1944?45年)を戦った1945年に台湾での飛行機事故で死亡。(http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/4152320.stm。8月16日アクセス)

このほかにも、日本軍の支援の下につくられ、アウン・サン(Aung San1915?47年。アウンサン・スーチー女史の父)をリーダーとして、日本軍との共同作戦でビルマから英軍を駆逐したビルマ義勇軍(注11http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%B31025日アクセス)、フィリピンで日本の味方をした義勇軍であり、そのためその要員が戦後ずっと迫害されてきたマカピリ(Makapili-フィリピン愛国同志会)http://www.nhk.or.jp/omoban/main0815.html1025日アクセス)等、先の大戦がらみのもの以外を含め、探せばまだまだ出てきそうです(注12)。

(11)1945年にアウン・サンらは駐ビルマ日本軍に対し、一斉放棄するが、これにはビルマ占領後、日本軍がビルマに名目的な独立しか認めなかったことが原因(http://www.worldtimes.co.jp/syohyou/bk030915-2.html1025日アクセス)。

(注12)日支事変の途中(1938)からの汪兆銘Wang Zhao ming1833?1944年)の南京政府の「軍隊」や、満州国軍等については、実態が良く分からない上、その活動は治安維持や日本軍の後方支援の域を出ていなかったと思われるので、とりあえずは触れないことにする。

 これらの「軍隊」で日本軍と共に戦って斃れた人々もまた、尊敬と畏怖の対象として、神社に祀られしかるべきだという気が私にはします。

 問題は、戊辰戦争や西南戦争における「賊軍」の戦没者と違って、彼らの姓名がほんの一部しか明らかではない点ですが、分かっている範囲で神社の祭神とすることでよいのではないでしょうか。

 次に、先の大戦中空襲等によって死亡した日本の一般住民達です。

 彼らは総力戦体制の下でほぼ全員、家族を兵役に就かせたり、家族が徴用されたり、徴税したり国債を買ったりして戦争の遂行に間接的に貢献した人々であり、しかもその大部分が、米国による戦略焼夷弾爆撃や原爆投下といった戦争犯罪の犠牲になった人々なのですから、やはり尊敬と畏怖の対象として、神社に祀られてしかるべきでしょう。

 恐らく一番議論が分かれるであろうと考えられるのが、先の大戦等において、日本軍と戦って戦死した人々や、日本軍兵士の戦争犯罪によって、あるいは戦闘のとばっちりを受けて死亡した一般住民達の扱いでしょう。

 私は、圧倒的少数意見かもしれないけれど、彼らも神社に祀られてしかるべきだと思うのです。

 なぜなら、それは、「賊軍」側の死者をも祀るという神道の伝統に合致しているからです。

確かに、「三韓征伐」をしたことになっている神功皇后は祭神になっても(注13)、「征伐」された三韓(朝鮮)側の戦没者は祭神にはなっていませんが、渡来人が祭神になった高麗(こま)神社のような例もあることから、外国人が祭神になれない、というわけではなさそうだからです。

 (注13)ただし、神功皇后も応神天皇も現在では史実性が否定されている。八幡宮は、神功皇后とその子の応神天皇を祭神とする神社の総称http://ww4.tiki.ne.jp/~kameyama/rekisi/syamei.htm1025日アクセス)。

(注14)高句麗が668年に滅亡すると、高句麗の貴族や僧侶などが多数日本に渡り、主に東国に住んだ。高句麗の王族の高麗王若光は新しく設置された高麗郡(埼玉県日高市)の郡司に任命され、武蔵野の開発に尽くし、この地で没した。郡民はその遺徳をしのび、彼を祭神とする高麗神社をつくった。(http://www.asahi-net.or.jp/~hm9k-ajm/musasino/musasinomannyousannpo/azumauta/komanisiki/komagou2/komagou2.htm1025日アクセス)

(続く)

太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/