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太田述正コラム#10522006.1.20

<「アーロン収容所」再読(その13)>

 私自身が、米国流(アングロサクソン流)の倫理(=抽象的倫理=「高い」倫理)と日本流の人間関係(=状況倫理=「低い」倫理)の板挟みになった経験があります。

 私が1974年から1976年にかけて米スタンフォード大学に留学していた時、日本と随分違うなと思ったことの一つは、試験の時に試験監督官が試験会場に残っていない方が多いことでした。しかも、時には半日或いは丸一日の回答時間が与えられ、その間、(他人と相談してはダメだけれど)自分の居室や図書館等で文献等にあたって回答を書いても良い、という試験もありました。

定型の答案用冊子の表紙には必ず倫理規定(honor cord)が印刷してあり、カンニングをしてはならない、といったことが明記されています。学生はそれを守ることが当然であり、だから試験監督官が試験会場にいなくてもよいし持ち帰り形式の試験もできる、ということなのでしょう。確かに、カンニングの話はスタンフォードにいた二年間、まず耳にしたことがありません。(カンニングをやったら、それを知った他人は躊躇なく告発しますし、厳罰が科されます。)

 これは、大学院レベルだけでなく、学部レベルでも同じでした。(私は大学院レベルのビジネススクールだけでなく、政治学科の大学院にも在籍したが、政治学科の学部(undergraduate)の課目を一つとってみたところ、その課目の試験でも全く同じだった。)

 さて、この留学から帰国して1年経たない頃のことです。

 家族ぐるみで大変親しくしていた知人の大学生が、ある土曜日の午後、突然私の家にやってきたのです。

 当時はまだ土曜日の午前中は休みではなかったのですが、その日の午前中、彼の大学のある課目の授業で期末試験の試験問題が渡され、週末の間に自分で文献等にあたって作成した回答を週明けに提出せよと言われた、ついては私に回答を書いて欲しい、というのです。

 確かに、私なら簡単に回答が書けそうな出題内容でした。

 私は、参考になりそうな本を貸してやるから、自分で回答を書けと答えたところ、その大学生が怒り出しました。

 学期の始めに、この授業の教師が試験は週末をはさんだ持ち帰り形式でやる、と言ったので、この課目なら試験問題が分かってから太田さんに頼めばよいと考え、授業には全く出なかった。だから、本を貸してもらっても、チンプンカンプンで、回答を自分で週末中に書きあげることなど不可能だと言うのです。

 私は頑として拒否しました。スタンフォード大学仕込みの倫理感覚がそうさせたのです。

 結局彼は、太田さんがそんなに薄情な人だとは思わなかった、と捨て台詞を吐いて帰って行きました。

 それから、彼は我が家に寄りつかなくなり、何年かに一回、冠婚葬祭の場で一緒になっても、ほとんど口をきこうとしません。

 「事件」があってから、四半世紀ほど経った時に、たまたま彼と酒席で一緒になったのですが、その折には、彼はこの「事件」などなかったかのように、話しがはずみました。(この「事件」は話題にはなりませんでした。)

 しかし、これで一件落着とはいきません。

 実は、あの「事件」があってからそんなに時間が経たない頃から、持ち帰り形式の試験であったのだから、自分のあのような対応は間違っていたのかもしれない、という悔悟の念にとらわれ始めたのです。

 そしてそのうち、日本においては、抽象的な倫理ではなく、人間関係をより重視すべきであり、入試の替え玉受験や試験会場内でのカンニングとは違って、まず露見することはないし、そもそも犯罪(詐欺や業務妨害)に該当しそうもない以上、私は彼の依頼を受けてあげるべきであった、と思うようになりました。

 別の言い方をすれば、あの試験を行った教官は日本人として、回答の作成を他人に依頼する学生がいるであろうことは「想定の範囲内」であり、他人に依頼できるかどうかも実力のうち、と考えていたに違いない、と思うようになったのです。

 現在では、更に進んで、次のように考えるに至っています。

 「抽象的倫理を重視するアングロサクソン流倫理観と人間関係(状況倫理)を重視する日本流倫理観との間に高いとか低いとかはない。そもそも、アングロサクソン流倫理観よりも日本流倫理観の方がはるかに普遍性がある。しかも、日本流倫理観もアングロサクソン流倫理観同様、個人を単位とする倫理観であって、集団を単位とする倫理観とは違って「近代」と相容れない、ということもない」と。

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